自分らしい生き方の解釈。
自分の生き方を、覚悟がどうとか、自分らしい答えがどうとか、それはそうなのだけど、なんだかしっくりこない。
だけど、園芸でも、アクアでも、
趣味の何でも、活動の何でも、正しいとされる世間の常識の答えはあるけれど、やってみたい常識外のやり方を、実験的にやるってことがあるので
何と言うか、そんな常識外の自分らしい、
自分なりの最適解というか、自分なりのやり方を、既存外のマニュアル的な狙いのある、自分らしい試みがある人生の暫定的な措置とか、答えなら、そんなのは、よくやってる。
つまりは、それが私らしい生き方になるんだと、思ったら、わかりやすい。
結局は、誰が、その実験的な試みが、うまくいくか、いかないかは、わからないし、その人のプレイスキル次第で、結果の是非は違う。
それでも、やってみたい試みはあるし、既存のやり方も否定するわけじゃない。それもやりたいなら、やればいい。
オートマの答えも、別に悪くはない。
そのオートマのやり方が、常識と呼ばれるだけで、
それでさえ、本当にうまくいくかは、別なのだ。
何も、誰も、わからない。のが、現実だ。
だけど、マニュアルの仕組みを理解したら、自分だったら、こうするな!と思ったりもする。
カメラのマニュアルで撮影するなら、
こう撮るのにとか。
その撮影された画像の良し悪しは、誰が評価するでもなく、
他者と分かち合うよりも前に、自分がお気に入りになればいいだけなんだ。
それを分かち合うとか、他者から評価をもらっても、それはそれでいいのだけど、まずは、自分が好きなモノが欲しいから、撮ってるんだ。
時間と資産を削って。
つまり、
自分らしい生き方とは、そんなマニュアルの仕組みを、
学生の時に、人間関係やら、自分のスキルのレベルとかを、学んでからは、好きなように生きていい。
好きな画像を撮りたい様に、好きな場所で、好きな時間で、好きなモノを、好きなように撮ればいいことと同じだ。
つまりは、
人生は、フリースタイルなのだ。
本当に欲しい現実とは、自分にとってのお気に入りの画像なのだ。
それは、人間の「幸せ」の絵でなくてはならない。
それが、どんな画像でもいい。
だけど、
人間という構造上、いいなと思うのが、それぞれであっても、それは、「幸せ」の画なのだ。
それを、狙いが外れたからといって、
誰かのせいにしても、何も変わらない。
自分ができる範囲も限られているし、
狙いが狙い過ぎて、失敗してると、
自分の中で捉えているだけで、
外の人間からしたら、それは幸せの画像に映るのかもしれない。
自分のお気に入りの範囲が、狭すぎるということ。
逆に、誰に理解されるわけじゃない厳しい様な生き方でさえも、
本人が、お気に入りなライフを送ってるなら、それはそれで、その人の「正解」なのだ。
僕の孤独な生き方は、
あまり、大衆受けしないと思うのだけど、
割と、自分には合ってたりもするし、
現実的に、あまり、人と仲良くするスキルが少ないのだから、しょうがない面もあったりもするけれど、
僕は、あまり気にはならない。
いや、寂しい時もあるんだけど。
でも、なんか自分だけが、
この世界に生きるたった独りの存在の孤独を、
持っているし、
皆の内の1人であるとわかってからは、
別に、どんなに1人でも、
独りぼっちには、成り得ない縁の中に生きてるなら、別に、いいかぁ〜〜と、
なんか余り気にもならない時のほうが、
多いし、そもそもが個人主義で、
個別行動が好きなのだ。
みんなといても、
どっか1人で行っちゃうのが、僕らしい生き方だし、でも、付かず離れずに、
皆の動向は、人一倍、気にして生きてる。
というのが、僕のやり方だったりもする。
そもそもが変なやり方を、全く気にしない人だから、そんな変なのも、この世界に、1人ぐらいいても、気にならないだろうなと、勝手に判断してる。
仕事も、そんな訳で、
会社に属しつつ、1人でやってるから、
割と、本当に、自分には合ってんのかもなと思えてきた。
皆のお陰様で、勝手に仕事したり、休憩したり、
させてもらってるのは、
本当に自分らしい働き方で、
当に、最適解のやり方だと、これを書いてたら、核心に迫ってるな!と思えてきた。
自己中ではない訳でもないんだけど、
特に、迷惑は掛けないで、
好きなようにやらせてもらってるのだ。
これ以上を望むのは、
たぶん、人の迷惑になるから、止めた方がいいし、もう特に、冒険する思春期や青春期の子供でもない。
もうそろそろ、自分の責任を取って、
その責任とは、自分で決めた事を、行動で示すのが、筋であるを全うするだけなんだ。
孤独な生き方ではあるけれど、
ひとりぼっちが、そもそも悪いわけじゃね〜。
そっちの方が、性に合ってるだけだ。
全体の中の内の唯の一人の存在なら、
僕は、どんなに独りぼっちなろうと、
縁や皆の和の中から、はみ出る訳がないんだ。
その愛の輪の中で、生きてるのは、
この国では、皆と同じだから、
その点は、僕は安心してる。
そんな訳で、
自分らしい生き方とは、
幸せの画像を撮る生き方なのだ。
自分のお気に入りの絵を撮ろう。
それを何度も、何度も、やり直すのも、
もう、これでいいや!って、決めるのも、
諦めるのも、
粘るのも、
試行錯誤するのも、
一発で満足しちゃうのも、
まぁー、フリースタイルなのだ。
その為に、人は生きてればいいし、
好きな写真を撮ったと、
もう決めてしまって、
次は、それをどこにどう飾ろうか?なんて、
人生に大きな区切りや、
ステージがあるならば、
そんな働き方は、もうよしとしたなら、
そんな風に、次は、何を足したり、引いたりしていこうか?じゃなくて、
この自分の幸せを、どう活用するか?を、
人は、年老いるに連れて、
考えてもいいのだろうと思う。
自分とは、何か?を探すのではなく、
今ここにいる自分が、自分なんだと、
受け入れて、それをお気に入りとすれば良いし、
その自分が、時間を削りながら、
働くなら、こんな暮らしが、
自分らしい生き方であると、
お気に入りをしたら良い。
それを喜ぶのは、
まず、自分だし、
自分の為の「生きる」なんだ。
それをやるのも、自分なんだから、
常識外れても、そのやり方が変でもなんでも、
現実に、確固たる正解は、
現実という結果があるなら、
それが「正解」なんだ。
それでよくね?って話だ。
自分の幸せは、
自分が決めたらいい。
今僕は、深夜だけど、スープを飲みたい。
から、この記事は終わる!
自分にとっての最適解を、
皆が生きて欲しいなと願いながら、筆を置く。
ーー終わりーー
生き延びるために、 自分の生きる力にするために、 遣わせていただきます。