感情の起伏は思考の停止
人の思考とはどのようにできているのだろうか。
よく感情はどこから生まれるのだろうかということに疑問を持つ。
アジアの人は心という場所が自然とあって、気持ちを心に落とし込むことができるという。ただ、これは欧米の人とかにはわからないらしい。
そういえば、昔はキングダムハーツにはまっていて、感情は心からくるものだと言っていた。
心とは本当のところなんなのだろうか?
人は心臓は生命の源であって、止まってしまえば死んでしまう。
でも心臓という言葉に”心”があるように、心と言われれば心臓を指すだろう。
でも心臓には意思もなく、最終的には全ての感情も思考も脳が判別して生み出す。
連結しているとはいえ、言葉ではうまく表せない切っては切れない関係にあるのかもしれない。
私にとって、感情は心の振動とともに脳に伝達されて感情を生み出していると思っている。
だから特にイライラしているときは振動の鼓動も早くなって、脳の判断も急がされて思考を思わぬ方向に持っていっている。
そして心から思わぬことを言ってしまうことがある。
基本的には自分の中でイライラした感情が生まれたときは、冷静になれるまで時間をおいて、思考を整理し、言葉を選べるようになってから人と話すことが多い。
特にこの英語圏では特にそうで、ボキャブラリーが少ない私にとって言葉の選択を間違えると本当に誤解を生む。
どうしてこういう感情が生まれてしまうのかを見直すことが大事なことがたくさんあって、それは文化の違いからということがあってはいけないからだ。
感情と思考は繋がっていて、全ての源は感情から生まれるものだと言っても過言ではないのかと。
怒りの感情があれば、別にどうでもいいことも悪い風に見る側面が多くなるし、悲しみの感情があれば動きを鈍らせる。
楽しかったり嬉しい感情があると、やっぱりパフォーマンスはいい。
私はゴリゴリの理系で、物理学を専攻していたので万物の源はただの微生物。
誰がこの感情に名前をつけ、生み出したのかは言語化できないけれど、キリスト教のように神がいるというのならば、魔法のように、そしてアダムとイブのように人らしさというものを与えられたのかもしれない。
ここまでいうと、
人らしさとは何なのだろうか?
神はそもそも人なのか?同じ感情をもちあわせているのだろうか?
実際のところ、私たちの思っている宇宙は巨人族の世界のごく一部で感情という電波を流されているだけなのかもしれない。
など、想像はたくさんできるし、疑問はたくさん増えていくけど、今日はこんなところにしよう。
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