偏見(bias)とは何かを考察してみた!
英語にするなら、バイアス(bias)という単語が当てはまりそうだ!
英英辞典を引いてみると、第一の定義として、以下のように説明されています。
"bias" --- a strong feeling in favor of or against one group of people, or one side in an argument, often not based on fair judgement
……とあります。頑張って日本語に訳してみますと、
ある集団の人々あるいは片方の議論に対する好意的あるいは反意的な強い感情であり、往々にして公平な判断には基づいていないもの
といった具合になるかと思います。なるほどと思う定義になっています。
つまり偏見(バイアス)とは、“not based on fair judgement”なものである
言い換えればフェアーじゃない。アンフェアーだということ
確かに良いものではないですね。しかし、単純に「よくないもの」で片づけてしまっても良いのでしょうか?それは、以下の懸念があるからです。
●あまりにも「偏見」を取り除くことに集中すると、自己の「論理的基軸」にブレが生じる可能性がある
●実際の世の中には、公平であることよりも不公平であることの方が多いというのも事実である
●偏見であることを意識づけることにより、かえって偏見を助長する危険性をはらんでいるとも考えられる
どうやら、「偏見」というものを考察するためには、本当の意味での「平等」とは何であるのかということ、同時にまた、「偏見」と「論理的基軸」との違いを明確にする必要がありそうです。
世の中は「不平等」であることが多い。かといって「偏見」を持つ必要もない!
そもそも我々の住む「資本主義社会」において、平等・不平等に不満をいっていても始まりませんよね。裕福な家庭もあれば、そうでない家庭もある。都会に生まれる子もいれば、田舎に生まれる子もいます。このような格差のある社会においては、いとも簡単に「偏見」が醸成されていくことは想像に容易いと思います。これらの矛盾点について、私なりに考えをまとめてみます。
●社会構造が競争原理によって成り立っている以上、生まれた格差によって生じる不平等をどうにかするのは難しい
●論理的基軸とは、偏見のように一方を支持/嫌悪するものではなく、双方のメリット・デメリットを認識した上で、個人が選択する基本スタンスである
●不満を偏見という形で自己主張するのではなく、不平等を嘆くのでもなく、互いを認め合うところから、初めて議論のテーブルに立つことができる
●偏見は感情の一種であるもの故、議論の質を著しく低下させるものであり、不要のものである
●不平等を無理に修正するのではなく、不平等であっても不満を抱く必要のない状態にすることが肝要である
ザックリと上記の5つくらいに箇条書きしてみました。
ポイントは「互いを尊重しあうこと」であり、「互いを認め合う」ことであるように思えてきました。