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「調和」

過日の、寺尾紗穂弾き語りライブ。
毎年この季節、通算5回目となれば来てくださる方々の面々も、手伝ってくれる友たちも、手際よく臆することなくこの日を過ごしているように思う。慣れている落ち着き、馴染んでいる親しみ。
ただ今回は初めて、「予約なし」というスタイルでライブの告知をしたので、正直何度か不安に駆られた。

当日来る人数を把握していないということは、「委ねる」ことである。
でも過去の統計からいうと、いけるんじゃないか、と。
予約枠を超えたらもういっぱい、と言うのは毎度気が引けるものだったし、前日や当日になにがしのキャンセルをする方もされる方も、その連絡は本当にひつようなのかな、と。
ならばいっそ(パプアニューギニア海産の働き方を参考にして)
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1905/27/news005.html「予約なし」にしてみようと思った。

ライブを数日後に控えたある日、潤ちゃんと国頭の湧水場までお水を汲みに行った。その途中、林道で赤い実が光の反射できらっと光った。
たわわなさくらんぼ。
寒緋桜の木の下に車を寄せて見上げると、それはそれはうつくしい赤が鈴なりだった。さくらんぼは、まるで丁寧にネイルを塗り上げた指先のようで、鳥や虫やわたしたちを誘っているみたいだった。
車の上によじ登り夢中で摘んだ。果肉はとてもやわらかいのでつまむときには加減がひつよう。そっと且つ確実に、これは子ども時代に習得するべく動作のひとつのような気がした。
子ども時代に還って、指をすぼめて子どもの手になる。

紙で折った箱に満足いくまでさくらんぼがたまったので、切り上げて目的地である水汲み場に向かった。
ここは水量が多く安定しているため、10リットルタンクを貯めるなんてあっという間。昔住んでいたジャングルのなかの水汲み場はチョロチョロだったから、溜まるあいだはストレッチをしたり、森の奥をぼおっと見たり、しゃがんで目を瞑ったり、そうしてタンクがいっぱいになるのを待った時間が懐かしい。
飛沫を飛ばしながらキャップを締めて、トランクに載せた。

さあ帰ろう。

実に清々しい心境である。
帰り道、林道を抜けるとそこは海。海はどこまでも凪いでいた。

ふと、閃く。「気がかりな問題を考えるなら、『今』の精神状態なのではないか」
そこで、例の寺尾紗穂ライブ予約なし案件を思った。
「うん、大丈夫」
自分の心のことなのに、まるで占いをしているみたい。調和は、予測して得られるものじゃなく、皆みなが個々の思いを持ち寄って立ち上がるもの。だから、わたしが関与できる範囲を超えたところに調和はある。
みんな寺尾紗穂を聴きに集まってくる→すなわち信頼に値する→だからだいじょうぶ。
我ながら単純である。でもそれが明快へと繋がる。

3月28日ライブ当日、4名のお結び隊が、250個のお結びを結ぶために集まってくれた。
炊き上がったごはんをきっちりスケールで分けて、どんどんリズミカルに結んでいく。
小豆と玄米、海苔。
青菜とじゃこ、白胡麻。
ドライトマトとピスタチオ、ケイパー、セロリの葉のドライ、オリーブオイル。
干しきのこの炊き込みご飯。
手を動かしながらのおしゃべりは尽きず、きっちゃんが最近ずっと考えているというテーマ「死」について、お結びをこしらえながらみんなで話す。きっちゃんもしょーじくんも、ここ数年のあいだにお母さんを亡くしている。泣きそうになりながら、おのおのに想うことを話す。

そのうちリハが始まった。音が、突き抜ける。どこまでも透明で天に昇っていくようだった。今年はやけに音響が冴えていると思ったら、アッコが様々な箇所に、ピアノからマイクから照明まで、細やかで不思議な仕掛けを施してくれたようだった。音楽をこよなく愛する彼女の、音への追求がライブをよりよくしてくれている。
いつの間にかリハが終わり、お客さんがだんだんに集まってきた。飲み物を買ったり、お結びを頬張ったりしながら待つ時間。子どもたちの声、交わされる挨拶。椅子で静かに待つ人。
まだまだ陽の高い夕方、路上もロビーになっていた。

18時、そろそろ始まる時間。
そんな予感が充満した空間をぶったぎるように、紗穂さんのピアノは弾れた。いつもそう。突然に音が開く。
解き放たれた調べに反応して鳥肌が立った。

ぞわぞわしながら、集まった人の入り具合を見渡した。座っている人、立っている人、開け放った窓にいる人。
調和の可視化。再度、鳥肌が立った。

https://www.youtube.com/watch?v=n0sUpFA6r-8





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