「おまえの本気を見せてほしい」
何種類ものタロットカードを使ってリーディングをする友人が、「そうなの。アメリカから帰って来てから全然見れなくなっちゃったの」と瞬きもせずに言った。
友人は先日、長らく学んでいるタオイズムのお師匠さんに会いに、グランドキャニオン辺りに行ってきたばかり。
そこで起きたとんでもなく美しいエピソードを聞いて、「まるで神話だな」と聞き惚れたのだった。上橋菜穂子さんの「鹿の王」の世界。
自然である王に、自然である民(人間)が「仕える」世界。
彼女いわく、「前まではカードの絵が立体に見えたんだけど、なんか平面にしか見えないの。だから深く読むことが出来なくて。そんなんだからリーディングの仕事はいったん止めた。シャッターガラガラーって降ろした状態」
すごく不思議な現象だと思った。
身を乗り出して「なんで?」と聞いた。
「うーん、たぶんなんだけど、その人が本気で聞きたいって思ってないからなんだと思う。でもクライアントさんにとってはそれでも聞きたいことだからね。それってプロとしてどうなの?って」
「じゃあさ、もし立体に見えなかった場合は、『本気の案件しか観ることができません。その問題はほんとうにあなたにとって『本気』ですか?って訊ねるプロセスがひつよう、ってこと?」
「そういうこと」
「わー、ますます研ぎ澄まされちゃうね」
ドキドキした。わたしも数日前に「本気」について紆余曲折したばかりだったので、「ちょっと聞いてよ」と彼女にことの顛末を話した。
というのは、坂爪圭吾さんがhttps://note.com/keigosakatsume/n/n17e2e666a9c2
沖縄に来てる!と知ったのはtwitter(X)からだった。
「なぬーーー!なんとしても会いたい!」とその場でダッシュしそうなほど昂った。それにちょうど明日は息子を迎えに那覇空港に行く。坂爪さんは那覇にいるから、いっしょに夕飯を食べて・・・・と脳内で段取りを決めて、早速メッセージを送った。
それが一晩寝ても覚めても一向に返信がない。
これが契機だった。
「返信がないってことは、わたしの『本気』を試されているのかも知れない。」から始まって、どっぷり内省の森を彷徨うことに。
で、出てきた正直な気持ちは、「わたしの『会いたい』は、好奇心200%由来」だということ。生の坂爪圭吾の「気配」ってどんなどんなー???って。
坂爪さんは過去の文章のなかで、「俺に会いたいっていう人は2種類いて、ひとりはほんとうに悩みを抱えている人、もう片方は見せ物パンダ見たさだ」と書いている。
その2種類からいうと、わたしは完全に後者であるし、それが悪いってんじゃないけど、「ほんとうに悩みを抱えている人が優先されるべき」と思うほどの『本気』しか持ち合わせていない。坂爪さんに語りかける言葉が見つからない。目を細めて、傍観してる。
それに今回は、「沖縄に来てる!超ラッキー!」だけれど、それだって誰かの本気が坂爪さんを呼んだのだ。
それに便乗してどうする。呼びたかったら航空券なり出して来て貰えばいいんだ。それを「ラッキー!」って勘違いしてたよなー。
にしても、「返信が来ない」ということに、ここまで考えさせられるなんてすごいな。ひとことも交わしていないのに、わたしのなかでは言葉がたくさんだった。
そんな心のうちを、「今回は会えません」という結論を交えて再びメッセージをした。
そのメールには拍子抜けするほどすぐに返信があった。
それは、「え?返信してましたが届いてませんでしたか。りょーかーい!」
えええええ。届いてないよ、ないない。どこにもない。
なんかよくわからないまま那覇まで息子を迎えに行き、空港近くの上海ヌードルのお店で夕飯を食べている途中、「あのさ、勢いのままだったら、今ここに坂爪圭吾さんがいたかも知れなかったんだよね」と息子に一通り話すと、「なにそれ。迷惑メールフォルダとか見たの?」というから、そこで初めて「迷惑メールフォルダ」って存在にはたと気づく。
「おかーさんだったら完璧そういうことするじゃん。なんでみんなそこフォローしなかったの?」と真っ当なことを言われながら、おのおの麺を黙ってすすった。
帰宅し、息子がわたしのPCをガサ入れしたら、「普通に返信来てるじゃん。ゴミ箱にも迷惑メールにも入ってないよ。おかーさんの書いたメールの上にあるじゃん、ほらここ」
もう、仰天である。
返信が待ち遠しくて、夜中に2回も起きてメールチェックしたのはなんだったのか。
ふつーに返信きてた。ふつーに「夕飯食べましょう!」と書いてあった。
友人に話すと、「その返信メールは四次元ポケット入っちゃったんだねー」とニコニコしながら言われたけど、それ以外考えられないほど、わたしには「見えてなかった」のだ。
その後、坂爪圭吾さんは、「こころある人よりいただいたお金で、これから福岡に飛びます」とつぶやいていた。
「すべては、観るべきものが見る」ってことかもな。またひとつ、教訓である。