「子どもと働く」
日曜日、子どもといっしょに店に立つ。
18歳の長男と15歳の長女、ふたりの背丈はとうにわたしを超した。
フロアーで、お客さんと接している様子をチラと垣間みては、「よし」と確かめる。
遡ること開店当初、幾度か長男に「手伝ってみる?」と聞いてみたけど、なんなら彼のためにあたらしいエプロンやシャツも用意したけど、本人は一向に気乗りしないようだった。
ま、無理にやってもらってもお互い良いことはないのです。
「思惑通りはいかないもんだね!」と、わたしも潤ちゃんも早々に諦めた。
その長男が、「働く気」になったきっかけは、わたしの火傷だった。
怪我はたちまちわたしを弱くして、弱いことによって息子は猛然と働き始めた。
それまでのわたしが在り方がきっと強過ぎたのかも知れない。長男にしてみたら入る隙はなく、「『手伝ってみる?』って言うけどほんとに手が必要なの?。ただ社会勉強させたいだけなんじゃないの?」って思っていたに違いない。
そして、彼を動かしたのはバイト代(お金)じゃなくて感情だった。
それに至っては、「子ども」の本質に触れたような気持ちになった。
「なんかやることはないですか」
「できるようになりたいから教えて」
当時のわたしは手術の後遺症で、右腕の可動域が極めて狭められていたから、たとえば上の方にあるものを取ってもらったり、力仕事を代わってもらったり、それは「介護」の要素もあったと思う。
息子がバイトしてくれるようになって、ただただ助かったし、有難い限りだった。
以来、しっかりとスタメンで働いてもらっている。わたしが元の身体に戻ってもなお。
たとえば、長男が寝坊しても「怒る」ということはわたしも潤ちゃんもしない。
親として、「世間に出たら、寝坊に対して怒る人や咎める人もいて、ときに信用問題にも発展する」とはアドバイスするけど。
甘いと言われたらそうかも知れない。でも、自分の子だから甘いとか厳しいとかじゃくて、他人でもそう接する。だってにんげんだもの、たまに寝坊くらいはするでしょう。
ある日、長男が言った。
「家計と店の売上が直結しているって、わかりやすいね!」
だからだろうか、忙しいとほのかに嬉々としている。張り切っているように見える。
(とはいえ彼は日給で働いているので、忙しかろうが暇だろうが関係ない)
純粋に売上がいい日は喜び、いまいちな日はその理由を考えている。長男なりに、「店をもっとよくしたい」と思っている。
すなわち、「わたしたちと同じ気持ち」である。
なるほど、と思った。子どもと働くと、親としてもやる気が出るもんだな。
長女はと言うと、長男を見ているので、店を手伝うのが自然の流れ、という感じ。仕事を通して自分の苦手なことに出くわしては、「ムズイッ!」とか「うおー」って、のたうちまわっている。