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「入院日記」

(2019年の5月から約2ヶ月間、名護の総合病院に入院していたときに書いた日記をまとめたものです。自分への忘備録としても、noteに残しておきたいと思いました)

「近況のご報告。長文です。」


とても懐かしいふたりが来てくれたので、その夜はいろいろと思いつくまま料理を作りました。
ジャガイモをディルと生胡椒とオリーブオイルで和えたり、車海老を島にんにくとレモングラスで炒めたり。それから島ダコとトマトのメキシコ風、赤マチの刺身に花椒油ジュッ。合わせて、「冷凍庫に潤ちゃんが買ってきたソーセージがあったっけ」と、早速それをボイルして、青唐辛子のスライスを添えてサーヴ。美味しそうな脂の浮いたソーセージの茹で汁はとっておいて、ここにキャベツをたっぷり入れて、〆はパスタにしよう。
ふたりとはかれこれ10年ぶりくらいに会うのに、ちっとも変わってなくてちょっとびっくり。それを言うと、「でしょ?」と、したり顔で返事。その辺りも変わらなくて。
「さて、そろそろパスタを茹でるとするか。」
台所に向かったわたしは、茹で汁を温め直し、キャベツを葉と芯に分け、ザクザク切った、のだろうか。気が付いた時には、服の背中に火がついていた。それからは無我夢中、シンクに飛び込んで蛇口をひねり、水をジャージャーかけまくり。ところが、この火がなかなかどうしてすぐに消えなくて。
ようやく鎮火、そのまま風呂場へ向かい、鍵をかけて、服のままシャワーの水を浴び続けました。その頃、「なんだか髪の毛が燃えたような臭いがする」と、夫が台所に行ったら床がびしょ濡れ、すぐに風呂場のわたしに気が付いて、鍵を破錠して。その辺りはもう記憶が途切れ途切れ。「馬油!」と言うわたしを一蹴し、夫は救急車を呼んだのでした。(的確な判断でした)
大火傷の顛末はこんな感じ。ただいま入院23日目。

症状は、右の背中から右の上腕部にかけて、ところによりIII度の熱傷。
燃えた服は、いちばんのお気に入りの極薄手のカディのブラウス。シャンブレーでふわりと少し大きめのサイズ。よく風をはらみ、とても涼しいシャツ。(ようするに、よく燃えそうってこと。って、燃えそうか燃えなそうかで服選びなんかしないけど)仕事中はエプロンをつけているけど、この日は休みだったのでそのままだったのが迂闊。
「ただパスタを作っていただけ」だったのに、事の展開にただ呆然としています。
でも、すごいなぁと思うのは、火傷の箇所だけがどくどく響いていて、身体が懸命に再生しようとしているのがよくわかること。その分、末端はとても冷えていて、きっとスリープ状態なのでしょう。
来週、3度目の手術があるのですが、たぶん、それで峠は越えるかなぁと。(なんと、手術中のBGMとして有線放送が選べるんです。1回目はたまたまビル・エバンスがかかってた。2回目は、クラシックのピアノをリクエスト。ほんとはHIP HOPがよかったんだけど、処置がギャングスタになったら困るな、と自粛。3回目は全身麻酔だから関係ないかな)
日々、暇だからか、ついいろいろ考えてしまう。
チベットの僧侶のこと、数年前の渋谷駅のこと。抗議として、自らの身体に火をつけるという行為、(怒りの)炎に包まれるということ。
一方、わたしの事故は過失だけど、それを「罰」と捉える自分がうっすらいて。がしかし、いったい何に対する罰なのか、罰にしては荒っぽ過ぎるだろう、これって自己憐憫の歪んだやつ?と、この悪しき慣習に嫌気がさす。悪いことをした心当たりがないのに(自覚がないだけかも)、悪いことが起こると罰が当たったんじゃないかと疑う習性。
少なくとも、子どもたちだけは、そんなふうに思わずに育って欲しい、と思った。
主治医や看護師さんたちの心配りにも、涙腺が緩みっぱなし。立派なお仕事です。担当看護師さんのなかに、新人の22歳の女の子がいるんですが、彼女はかならず毎日の処置が終わると、わたしの背中を軽く、トントントンと3回触ってくれます。まるで「終わりましたね、頑張りましたね」と労ってくれているよう。
他者に対するやさしさの注ぎ方に、また目頭が熱くなってしまっています。
手厚く施されて、与えられて。
というわけで、しばらく波羅蜜の「きょうのひと皿」をお休みしている理由は、このようなことでした。ご心配お掛けしています。とはいえ、おいしいサンドイッチを4種、特別にフレンチトーストもご用意してます。珈琲やお菓子は、いつも通り。「ぜひ、お越しくださいませ」としか今のわたしには言えない。

「病床からのお便り」


入院も一ヶ月にもなると、すっかり馴染んでくるというか、もはや入院前の日常が遠くの出来事みたいで。
病人として、日々病院で暮らしているわけですが、看護師さんたち以外は当たり前にみんな病人なので、どこかしら弱い部分(病気)を持っています。
朝の洗面所なんて行くと圧巻です。まず、点滴台を片手に顔を洗っている人の多いこと。車椅子の人、松葉杖の人、管だらけの人。ときに「ぐあー」とか「がああああ」とか言いながら、粛々とめいめいの「朝」を迎えています。きっと、ガンガーの沐浴もこんな感じなのかもな、と。(人間のおのおのっぷりが)
わたしも足をずりずり引きづりながら、医療機材を肩にかけ鏡の前に、「ずいぶんと髪がボサボサだこと。」と苦笑い。
病室では、誰かが痰をぜろぜろとからませていても、おならを連発させていても、ぶつぶつ独り言を言っていても、誰も眉をしかめません。(わたしの前のベッドのおばあちゃんは、日に何度も何度も『ありがとうございます。おとうさん、〇〇さん、ありがとうございますありがとうありがとう」と唱えています)
寝食を共にしているからとはいえ、むしろ「病人とは、そういものだ」という共通認識のせいか、みな弱さを前面に過ごしています。それが無性に心地よくもあり。
看護師さんたちは、開口一番、「痛みはどうですか」と聞きます。
少しでも痛みから解放してあげたい、という熱意がこちらにも伝わって来る。
叶うことなら、完全に痛みから解放されたいではあるけれど、でも今の症状を考えると、それは到底難しい。だから、我慢できるところは獣のようにじっと凌いで、ほんとに耐えられないときは、(アセトアミノフェンやアーニカでは効かないとき)伝えます。でもそこまでいくと、もはや注射レベルになってしまうけれど。
痛みは、ほんとに個人のものだと痛感しました。誰一人として代わることのできないもの。それは、身体もそして心も。だからこそ、毎日の「痛みはどうですか」のひとことに、励まされています。
お礼 ひとつひとつのコメント、繰り返し何度も読みました。ただただ感謝です。美味しいものやきれいなものもありがとうございました。みなさまも、どうぞご自愛下さいませね。

「リハビリ兼ねての入院日記」


ポツポツと友人がお見舞いに来てくれる。
今日は、沖縄市からかのちゃんが、前回のエッセンスの補充を兼ねて、ついでにうちの子ふたりを乗せて(りくとぬい)やってきた。
昨日は東京からショージ君が、リクエストしたタタミイワシと甘納豆持参で。神戸からはササが、クラニオセイクラルの施術をしに来てくれた。ふたりとも、今夜の「波羅蜜」での高木正勝ライヴに合わせての来沖。
数日前は、プーケット帰りの雪音さんが空港から直で、「はい、お土産!」と大容量のドライマンゴーを。真っ赤に日焼けして、すこぶる充実したバカンスだったよう。
宜野湾からはシャンティさん。のっけから涙目のシャンティさんが来たら、わたしももはや泣くしかない。ほんとにこの方は、物事を真剣に前向きに捉えて、その方向を指し示してくれる。
高知のユミさんからは旅茶碗が。さっそくそのお茶碗でお茶を飲んでいたら、天から芍薬の花びらがパラパラと頭の上に降ってきた。棚の上に飾っていた花束から落ちたのだ。
鎌倉の千夏ちゃんからインドの塗り薬と草を編んだもの、そしていつものおおらかな手描きの文字。
たまちゃんの作ったおいしいみかんゼリー、れいこちゃんの編んだティーリーフのレイ。
そして、たくさんの労いの言葉。祈りというもの。
点在する各地の友人知人たちが、この2畳あまりの病床へと、まるで降り注ぐ光線みたいに、手を差し伸べてくれる。それはまるで、火傷跡に集中する白血球のようでもあり、物事の相似性を垣間見る想い。
同時に、ありあまる気持ちでぼおっとしている。
今でこそだけど、入院の前半は、とてもじゃないけれどお見舞いを受け入れられる状況じゃなかった。というのは、いちにちずーっと寝ているしかなく、どこまでも果てしなく寝続けていた。
省エネモードというか、火傷のショックを和らげるために、「眠り」は、いちばん効果的なのだろう。
でも、2度の手術後から、急に(冬眠から覚めた熊のように)活動時間が長くとれるようになった。すると、それを知っていたかのように、友人たちがちらほら会いに来てくれるもんだから、「おもんばかる」というセンサーの精度に驚いている。
それから、今回ばかりは自分のなかのエネルギーが著しく消耗しているのをリアルに実感して、とうとう、ふたりのエキスパートに力添えをしてもらった。「もうだめだー、自分だけではとうてい賄えなーい」と白旗あげて。そしたらふたりとも、「ありがとう」と言った。わたしが頼ったら、「ありがとう」と。
目から鱗が落ちた。
そのうちのひとりは、「なんでもっと早く言ってくれなかったのよ!んもう!」とプンスカ怒りさえもした。
なんだかこの火傷、いろいろなことを浮き彫りにしているみたい。
そんなことを潤ちゃんに話したら、「とうとうわかったか」と、半ば呆れた顔で、わたしの顔を直視した。
「自分のことがいちばんわからない」ってよく聞くけど、きっとそれなのね。

「毎日の処置」


包帯とガーゼをはがして、患部をきれいに洗って、軟膏を塗って、またガーゼを貼って包帯を巻く。
これまでに使い捨てたガーゼの量は、いったいどれくらいだろう。たぶん座布団20枚くらいは出来るんじゃないかな。
しのびない、と感じつつも、滅菌された清潔なガーゼを湯水のように使わざる得ない。
最近は、処置の手順にも慣れて、昨日から「自分でやってみますか?」と、皮膚にぴったりと貼り付いてしまったなにがしを(説明できない)取り除くため、ピンセットを渡された。主治医とわたしで黙々と、なにがしを除去する地道な作業。
途中、「いてっ!」とか「わっ!」とか合いの手を入れながら。
にしても、痛みにつよくなった、というか、向き合えるように、挑めるようになったと思う。「さて、どんだけ痛いの君は」と。
そのきっかけは、「痛みは苦痛ではない」という言葉から。
主治医の作戦は、「痛いですよー痛いですよー」と初めに伏線を張る術。で、「え?思ったり痛くなかった」だったらラッキーで、仮に痛かったとしても「ね、痛いって言ったでしょ」となる。
でも、わたしの好みとしては、初めに「そんなには痛くないかな」と曖昧に言って欲しい。で、「ほんとだ!痛くなかった!」と思ったり、痛かったら「先生、痛いです!」と、つかのま責めて発散する。その旨を伝えたら、「あはは」とスルーされた。

「痛みにはいろんな種類がある」


ズキズキ、ちくちく、がんがん、きゅー、ぎゅー、ザクザク、ドーーーーーーン(この痛みが来ると、土星が回転している映像が浮かぶ)。
ドーーーーーーンがベースにあって、そこにちくちくが重ねてくることもある。
そんな、いろんな痛みを経て、「これくらいだったら痛み止めは効くな」と常備薬を飲むこともあるし、「このレベルは効かない」とナースコールを押すときも。
主治医も看護師さんもなんとか、「そのとき」のバリエーションの痛みを軽減させようと、ありとあらゆる手立てをしてくれる。
あるときは皮下注射、またあるときは痛み止めジェル、昨日は奥の手、「胃カメラを飲むときにシュッシュするもの」まで調達された。
入院してから幾度となく、上記のような痛みのあれこれを経験し、「ほほう」と感心したことがある。
究極に痛いと、(わたしの場合)反射的に涙が出るのだ。
例えば局所麻酔の注射。オペをする範囲に何箇所も注射を打つ。
初めの「チク」が猛烈に痛かったら、そこで「えーん」となる。2箇所目チク、「そこまでじゃないかも」、と思っても、1箇所目の痛みのインパクトのせいで、泣き止むことができない。主治医は「あれ、ここも痛い?ここはどう?」と、どんどん先に針を刺していく。
わたしはまったくそのペースに追いつけずに、この涙はいったい何箇所目の影響なのかもはやわからない。
涙の摂理はよくできている。さながら、痛み処理班だ。
痛みについて友人と話したり検索したりしてみると、どうやら「脳」が記憶するらしい。例えば、足を切断した人が、「足が痛い」と言ったり、慢性的な痛みも、「勝手に脳が作り出したもの」が原因の場合が多いとか。
なるほどわたしの「脳」はがっつりと、痛み=苦痛という記憶をせっせと溜め込んでは、処置の度にいちいち憂鬱になる日々を送っていた。
その窮屈さにうんざりしていたある日、こんな言葉に出合った。
「物事の、現時点を生きる方法を見付けてたとしたら、痛みはあるかもしれないが、苦痛である必要はない。」
目の前の霧が、さーっと引くような思いだった。わたしはすごく狭い範囲で痛みを捉えていた。
なにも「苦痛」にカテゴリーすることもないなぁ、と。「痛い」は「痛い」でいいじゃないか。
さて、今日は「現時点で生きる方法」として、処置後にアケさんからもらった、パインとアーモンドのタルトを食べよう。ああ、たのしみ。

「田植え」


まいどまいど、痛そな内容ばかり連投してしまい恐縮です。
大なり小なり痛みは誰しもが共感できることだけに、痛そな投稿を読むと、「あー、痛そう」って眉八の字になりますよね。読んだあなたはどこも痛くないのに、追体験というか連想させてしまってごめんなさい。そして現在絶賛痛み中のあなた。「痛みの友」(痛友)として、エールを送ります。
と、ここまで前置きしたらだいじょうぶかな。
さて、昨日の処置について、です。
昨日は、1週間前くらいから主治医がほのめかしていた処置を、朝一番、「はい、今日やりましょうねー。」と、迷いなく宣告された。数週間前に全身麻酔をかけて、右大腿部の表皮を「粘着テープのようなもの」で薄くはぎとり(ちなみに表皮の厚さは0、1~0、2mm)、いちばん深い火傷部分、右上腕部に植皮したのだけど、どうやらわたしの表皮は他より「薄い」らしく、ようは深くはぎとりすぎた、と。
で、このまま自然治癒を待っていたら、長らく痛いままだし、時間もうんとかかる。だったらいっそ、左大腿部の何箇所かからうすーく表皮を剃刀ではぎとって、右大腿部に植皮しましょう、という処置。
説明を受けたわたしは、きょとーん。
そもそも、わたしの両足大腿部は、無傷だったわけで。
「あのー、今って21世紀ですか?」と思わず聞いてしまいそうだった。
やれクローンだ、遺伝子組み換えだ、IPS細胞だと騒がれているわりには、わたしのところまでは、その恩恵は届いてこず。
しかし朝の主治医の鶴の一声は、いささか突然ではあるけれど、いつまでもこの状態が続くのは困るので、「はい」と返答した。
「ほんとに、申し訳ない」とうなだれる主治医を前に、とても個人を責める気にはなれない。というのは、わたしがお人好しということではなくて、入院中に沖縄北部の医療の(田舎はどこでもそうなのかも知れない)問題を目の当たりにしたからだ。医療機材や人手の不足。
医療、って言っても、結局は政治につながるのだな。
処置は、ななんと、この4人部屋のベッドで執り行われた。その光景はまるで、「国境なき医師団」。事前に看護師さんに、「わたし、ぜったいにぎゃーとかわあとか騒ぎますけど、そういうのって、病室的にはアリなんですか?」と聞いたら、「ぜんぜんアリです!」と言うもんだからちょっと安心。
いざ。
「そら豆くらいにはぎとった数十枚の皮膚を、はさみで胡麻粒くらいに刻み、裏表間違わないように、田植えするように患部に置いていく」というオペ。
そら豆作りは麻酔のおかげでことなきことを経て、後の、朦朧としているわたしの目には、小さいはさみでチョキチョキと表皮を切る、まめまめしい主治医の背中。
ようやく苗が出来たので、今度は田植えに入る。50枚くらいの小さな皮膚をピンセットでつまみ、均等に置く。
置くだけなのに、ただ置くだけと言うのに、ひと騒ぎした後、あまりの痛さゆえに途中から笑ってしまう。「あと10枚ですよ!」と看護師さん。「あ、いつもの瞑想状態入ったから、そろそろ限界きてるんじゃないですか!」と別の看護師さん。
「田植え、完了!」
はーーーーーーー。
3時間のオペを終え、しばしボー然。この「ボー然」状態が興味深かった。眠ってはいないんだけど、夢を見ていた。夢のなかでわたしは、アケさんの作ったパッションのムースを、ひとり木陰で味わっていた。
ひと晩経って、今日。予想を反して、足が前より痛くなくなっている。育苗した苗が、もう根付いているのかな。まさか。
このままうまくいけば、いつかは黄金色の稲穂が実る日も近い。

「アクセスバーズ」


昨日は、ひなちゃんとその息子のタオがお見舞いに来てくれました。
タオはうちの子たちと同じ「牧場の学校」に通う、11歳の男の子です。サーフィンが上手で、頭の回転が並外れて早い、いわば「ボケとつっこみをひとりでやるタイプ」の子です。
そのタオが、アクセスバースをやってくれるとのこと。アクセスバースについて、まったくの無知のわたしにタオは、「身体のなかのいらない電気を取り除くこと」だと説明してくれました。
「はい、きこちゃん寝て」と来て早々おもむろに、仰向けに寝るよう指示。まずは頭の下に手を添えて、しばしの沈黙。「うあー、きこちゃんビリビリだよ、わかる?自分ですごい電気がたまってること」と言われても、「タオの手がプルプルしてることはわかるけど」「きこちゃんの電気でブルブルしてるんだよ」と。さっと手をひき、腕をぶんぶん払っているタオ。「え、そうやって電気を振り払うの?」と聞くと、「タオの頭の先から電気はバーって出るんだけど、残った分はこうやって振り払う」とのこと。
わたしのおでこに指をそっと置き、放電をし続けるタオ。「はぁ、少しはマシになってきた」と。
途中、頭がぎゅーっと押されるような感触があったり(タオは押してない)熱くなったりと、確かになにかが身体で起こっている実感がある。
「きこちゃんの頭、やりやすい。お父さんは細長すぎるし、Kちゃんは丸すぎる」と、しばし頭の形談義。「タオの手、ちっちゃいからさ」と、そうだったね、あなたはまだ11歳だものね。
終わったあと、甘党のタオにチョコレートをすすめると、「やった」と。「ふたつ、いいよ」と言うと、タオの顔がたちまちニンマリしました。
子どもは「氣が良い」といいます。実際に、子どもに触ってもらうと、とても気持ちいい。
お母さんのひなちゃんは、わが子の様子を眺めながら、最近の状況を話したり、昔バリで暮らしていたときの話しを聞かせてくれました。
「そろそろ帰ろうか」と、ひなちゃんが言った時、タオが「きょうはきこちゃんに会えてよかった。また来るね。」とさらりと言った。
そうしたらひなちゃんが、「きこちゃんは、タオの2番目のお母さんだもんね」と。内心、「いやいや、おかあさんじゃなくて、ともだち」と焦りながら、(そんなキャラじゃないから)そんな素直なタオがますます好きになりました。
夜、パソコンで文章を読もうと思ったら、まったく文字が入ってこなくて。諦めて目を瞑ったら、すごくリラックスしている。そのまま寝落ちしたのは言うまでもありません。

「いつも突然にやってくる主治医」


昨日の午前中、薄ピンクの仕切りカーテン越しに、「にしごーりさん!」(わたしの戸籍上の姓)と声が掛かった。
「はい」と返事をすると、さーっとカーテンが開いた。
「ちょうど外来が空いたので、今から大腿部の処置しましょーね」
大腿部の処置、ということは、ガーゼをはがすのか・・・。
この「ガーゼをはがす」というさりげない行為が、実はものすごい破壊力を持っていることを、いったいどれくらいの数の人が知っているのだろうか。
少なくとも、この主治医は知っている。それに今日は、見たからに「ベテラン」な、初見の看護師さんを連れてきた。
包帯はスルスルと気持ちがいいくらいスムーズに取れる。問題はガーゼだ。何枚も何枚も重ねているミルフィーユ状のガーゼに、生理食塩水をじゃばじゃばかけて患部をふやかす。それをそっとはがしていく。まずは、「わたし、取ります。」と挙手し、はがせるところまで自力ではがす。いちまい、またいちまい。瞬間、ピリッときた。はがす手が止まる。
「どうしますか。自分でやりますか?」と看護師さんに聞かれ、「はい」と答えてみるも、なかなか痛さゆえに先に進まない。すると看護師さんが、「痛いよねー、痛いよねー」と共感のおまじないを唱えながら、横からくだんのガーゼをくいくいと押してきた。その手つきはまるで、生春巻きを巻いているみたい。「そっか!その手があったか」と感心し見入っていると、「はい、ここから痛いですっ!」と声が豹変し、鮮やかな指さばきでペリッとはがした。一瞬、激痛が走り、足はブルブル。
でも、まだ後方が半分残っている。感触的にはむしろ、こちらの方がよりぴったりとくっついていて手強そう。こうなると、さすがの看護師さんも「うーん、かなりくっついちゃってるね」とうなっている。
そこで主治医、登場。「ぼく、やります。」
ベリベリベリベリ!
プロだからこそ、ときに無慈悲になる。この先の処置のイメージがはっきりとあるからこそ、容赦なく実行できる。
否応無しに痛い、でもそんなプロ意識に舌を巻く。
にしても、この「くっつくガーゼ問題」は、こんにちに始まったわけではなかろうに。
ただ一度だけ、「掃除してたらこんなのが出てきました!」と、試供品でもらったという「モイスキンパット」なるガーゼを持ってきてくれたことがあった。それは、奇跡のガーゼだった。「すごい!くっつかないじゃないですかこれ、最高です!」と興奮して言ってみたところで、「にしごーりさん、試供品なのでこれしかないんです」と、あっけなく終了。
夕方、また主治医がひょっこりやってきた。「にしごーりさん、くっつくガーゼは嫌ですか?」
なんじゃその質問は。
「嫌、というか、これまでこのくっつきをはがす痛みをみなさん耐えているんですか?」と率直に聞いてみた。そうしたら、「はい、だいたいは。でも、にしごーりさんのために『モイスキンパッド』仕入れたので、入り用だったら下の売店で買ってください。」
え!そういうシステムなの?。
でもなんだな、時には「わあ!」とか「ぎゃー」とか「にゃにゃにゃにゃ」とか、全身で訴えてみるものだな。
ということで、今日からの処置は「マイガーゼ」でやってもらいます。いちまい180円と高級ですが、背に腹はかえられません。

「昨日から、左大腿部の処置を任された」


先週、左大腿部の皮膚を、右大腿部に植皮するため、うすーく皮膚を剃刀で切るオペをしたのだが、この患部を実際にちゃんと見たのは実は昨日が初めて。そこには主治医いわく「そら豆くらいのサイズ」、の傷がきれいに20個並んでいた。
その不自然なまでに整列された傷は、まるで、「宇宙人に連れ去られて『空白の2時間』を経て、意識が戻ったらこの傷がついていた」みたいだった。傷自体は、うすーく切っただけあって極浅いので、だからだろう「にしごーりさん、ご自分でやってみましょう」と託された。
処置の段取りとしては、患部をシャワーできれいに洗って、ガーゼで拭いて、イソジンを塗って、ラップで覆って、大判のガーゼでラップがずれないように保護する。これをいちにち3回行う。いわゆる、「湿潤療法」だと思うが、純然たる「湿潤療法」はイソジンで消毒はしない。むしろ有害である。なぜなら、ラップで覆った患部には、自らの身体から浸出する成分、菌によって治癒を促すので、そこにイソジンなどの消毒液を使ったらせっかくの菌が死滅する、とのこと。(ざっくりと説明すると)
なるほど、そうだろう。
でも主治医は、「歓迎しない菌」に感染することを予防したくイソジンを推奨する。
「どうしたものか」と悩む。誰かにやってもらうならともかく、自分でやっていいのだ。
3分くらい悩んで、ここは脱イソジンで行くことに決めた。(脱、といっても1回しか使っていないけど)
入院してから、いろいろな薬を飲んだり、点滴をしたりしている。普段、まったく飲まないだけにはじめはえらく抵抗があったが、「対処療法」だと思えば致し方ない。血液検査で緑膿菌が出ただの貧血だの、その時々で、「入院中の治療」に差し支えがあるならば仕方がない。それに、何かと対処してくれるというのはありがたく、「ガーゼが嫌だ」と言えば、くっつかないガーゼを提示してくれ、「包帯がかゆい」と言えば、包帯が皮膚に直接触れないような巻き方をしてくれる。「枕がもう2個欲しい」といえばこころよく持ってきてくれ、やれアイスノンだ湯たんぽだと、あまたの要望に応えてくれる。
だからだろうか、「イソジンは塗らない」という自身の行為に若干の背徳感。かつ、「個」としてのわたしを実感してもいる。
そして、治療は主治医や看護師さんたちから施されるもの、だけではない。タオがアクセスバーズをやってくれたり、潤ちゃんや子どもたちが手を当ててくれたり、ゆきこさんが足指をほぐしてくれたり、あっこが超絶おいしいペンネを差し入れしてくれたり、愛理さんが「アゲアゲセット」を送ってくれたり・・・・。
複合的に、あまたの施しをもらっている。
そんな甲斐あって、おかげさまで4回目の手術、「お腹から皮膚をとって背中に植皮する」というオペはキャンセルになった。
「あれ、にしごーりさん、背中の皮膚がめきめき生えてきてますよ」と。
みんなに、ハイタッチです。

「見晴らしのいい丘に建つこの病院」


病室のおおきな窓から見えるのは、その時々の空模様。
今は、銀色の空に銀色の雲が見える。雲は次々とゆっくり流れては、風に押されて脇目も振らず東に進んでいる。
この風景も5分も経てば、また違う景色を見せるのだろう。
ああ、とにかく時間がある。
ことに土日はとりわけ静かなせいか、まるで隔離されているみたい。
だからだろうか、とりとめのないことばかり考えてしまう。
 以前、投稿した文章のなかに、「わたしの事故は過失だけど、それを「罰」と捉える自分がうっすらいて。(途中省略)悪いことをしていないのに、悪いことが起こると罰が当たったんじゃないかと疑う習性」と書いたことある。(「悪いことをしていないのに」は傲りかもしれないけど)
寄せられたコメントのなかには、この一文を気遣って、「罰なんかじゃないよ」と言ってくれる人もいた。
「そうだよね、罰じゃないよね」と、その暗い穴からひょいっと抜け出せればいいのだけれど、どうも足を引っ張るのは、「そもそもがなぜ罰と感じるのだろうか」という謎。
例えば、下駄の鼻緒がふいに切れたり、大きな流れ星の出現によって心当たりの死を予感したり。
子どもが悪さをすると、「バチが当たるよ」と言い、季節によっては「サンタクロースが来ないよ」と言ったり。(これ、ほんとに言ってはいけないと思っている)
験を担ぐ、虫の知らせ、言霊。
得体の知れないものから、「意味」を立ち上がらせ、何かと何かを関連付けては、さらなる「意味」を持たせる。
で、思い当たった。今回の火傷の場合、「罪を犯してしまったのではないか」と感じる理由は、火=火ヌ神(ひぬかん)が関係している。というのは、沖縄では台所に火ヌ神を祀る家が未だに多く、新月と満月に供物を捧げる。そこを気にかけながらも、火ヌ神に迎合することなく、我流でやり過ごしていた。ここに過信があった。確かに「うっすら」と。
「ああ。」わたしの限りある想像力はそこに着地し、「退院したら火ヌ神棚作ろう」と思った次第。(とはいえ、そんなことで罰を与えるような狭小な技量の神様じゃなかろうに)
でも仮に、ニーチェだったらと考える。
「服に火がついて火傷した。これに深い意味なんかないよ。」と言うだろう。
試しにそういうふうに思ってみるやも、「この火傷に意味はあるのか、それともないのか」と問えば、「ない」と言ったときの自分は、さっぱりと清々しいではあるけれど、「果たして『ない』なんて言っちゃっていいのだろうか」と思っている。
反対に「ある」と言うときの自分の感情は「未知なるモヤモヤを肯定的に捉えようと、且つあやふな確信を持って(あやふやな確信!笑)」言っている。(そこで気をつけないといけないのは、意味を盛り過ぎて、自分で自分の首を絞めることのないように)
がしかし、多分、意味なんてない。ぜんぶわたしが勝手に作り出したもの。
それを知りつつもなお、後ろを何度も振り返り、思い当たる限り今回の過失を自省する、その作用とは。
ちくっと心に刺さった禍々しさや、穢れみたいに感じているものを祓っていくために。
それはまるで、ふかふかの布団で気持ちよく寝たいがゆえに、湿気った布団を白昼にさらして日干しするようなもの、だと思う。
今日はここまで来た。ちょっとすっきり。


「相部屋」


4人相部屋のこの病室の、わたしのスペースは約2畳。そこにベッドと棚つきの机、椅子が置いてある。入院1ヶ月半で増えた私物は、今の自分の「必要最小限」の見本市だ。
コップ、歯ブラシ、スプーン、箸、ペティナイフ、ブラシ、ティッシュペーパー。
本、パソコン、ノート、ボールペン、タオル、下着。
醤油、味噌、ディルオイル、マンゴーピックル、明太子、韓国海苔。
マヌカハニー、カカオのマヌカハニー漬け、シュクランの酵素シロップ。カカオの果肉のネクター、スイカ(スイカは入院してからおそらく4玉は食べている)、りんごジュース、水。
レメディ、アロマオイル、紫雲膏、モリンガ。
これらがギュギュッとここにある。だから、人がふたりも来れば満員だ。でも昨日は入室制限をはるかに超えた5人がわやわやとやってきて、あっという間に占拠した。しかもお見舞いではない、治療という。
今日の午前中、南部に住むかこさんが、うちの子と姪っ子の奏楽に「お手当て」を伝授した、と。それを早速、実践してみようと、現場に向かったらしい。
「はいみんな、思い出して。お手当のコツはね、ぼーっとしながら集中する!」そう、かこさんが言うと、子どもたちは、半目になりながら、各自あてがわれたわたしの患部に手を当て始めた。
この一連の動きをまったく把握していなかっただけに、初めは大いに戸惑いながらも、懸命に彼らの「氣」をキャッチしようと頭と身体を緩めた。
「ああ、りくの手は相変わらず湿っているな」とか、「たみの手はまだまだ小さくて可愛いな」とか、「奏楽の黒いマニュキュアは呪術的だな」とか思いながら、さながら人体実験か生贄かのようなシチュエーションを享受した。
「どう?みんな何か感じる?」指導者かこさんが言うと、「うん、なんかビリビリくる」とか「あったかい」とか「いまいち集中できない」とか、おのおのの感想を率直に述べている。「飽きたらやめていいからね」とかこさん。りくは手のポジションがまだしっくり来てないようで、むずむずと位置を探っている。13歳の男の子にとって、母に「手を当てる」ってどんな気持ちだろう。わたしはちょっとくすぐったい気持ち。でも、すごく嬉しい。いちばんちびの4歳児は、そんなニィニィとネェネェを尻目に、トレイに載せて運ばれてきたわたしの昼ごはんを、「おいしいねー」と言いながら、せっせとかきこんでいる。
 うちの子たちは、週に4日、馬の牧場の学校に通っている。月曜日は牧場の子たちみんなでランチを作る日で、あとの3日はお弁当持参。このお弁当だが、店が始まったタイミング、いちねんほど前から、自分たちのお弁当は自分たちで作るようになった。りくとたみが交代交代で、ちびの分まで作る。前の日に米を精米し、浸水して、朝炊く。おかずはごく簡単なもの。鮭を焼いたり、玉子を炒めたり、チャーハンの日もあれば、前の晩のおかずを詰めることも。りくは朝寝坊なので、お弁当当番の日は、まるでゾンビのように覇気なく何とかようやく仕上げていた。それがわたしが入院してからどうだろう。潤ちゃんが、「りく、弁当の日は5時半に起きてるんだよ」と。そりゃ、いくらなんでも早すぎやしないか。気合い入り過ぎて、無理してないか。でも本人いわく、「時間がないより余るくらいの方がいい。余ったらその分、ゆっくり出来る」と。そんな時間の使い方ができるようになったのか。「何作ったの?」と聞くと、「今日はね、海苔弁と梅干しにした」
海苔弁ごときに5時半起きって・・・。
がしかし、じんわりきた。もうひとりのわたしが、「そこ、泣くとこ?」と訝しげにツッコミを入れているが、「まだ薄暗い5時半に起きて、ひとりでせっせと海苔弁を3人分作るりくの姿」を想像すればするほど、涙腺がふるふると滲む。米の水加減や火加減、蒸らしている時間、りくのことだろうから、海苔はまっすぐに角を揃えて切るだろう。醤油を小皿に移し、海苔を浸して詰めたごはんにそっと置き、仕上げに梅干し。
そんな「海苔弁を作るまで」の一連の作業を想像しては、恍惚となった。そしてこの想像は、しばらくわたしを奮い立たせ、オペの際には勇気と畏怖の念までも与えてくれた。
「はい、もうそろそろいいんじゃない?」かこさんの終了宣言により、みんなの手がパーっと解き放たれた。その手でたみは私の頭を撫でてくれ、ぬいはわたしの手にキスをしてくれた。奏楽はにこっと微笑んでくれた。
なんだか、サイコーかよ。(芳野さん、使わせてください)
ますます、この若者たちを好きになった。

「ラスト」

「無理に剥がすと痛い」という理由から、(実験的に)しばらく放置していたメッシュガーゼ。主治医が「ちょっと時間を置き過ぎました」とわたしに告げる。それはすなわち、「今日、剥がします」という決意表明でもある。
左大腿部に移植した苗(皮膚)が、ところどころは順調に育っているものの、「メッシュガーゼは一般的にくっつきにくい」と言われているにも関わらず、強固に張り付いたメッシュの穴から表皮が出来上がる先に肉が隆起してしまい、結果、治癒を阻害していた。これは主治医にとっても、わたしにとっても想定外。表皮が出来上がってきたら、自然にメッシュガーゼもペローンと取れるもんだと楽観視していたから。
主治医は午後1時に病室にやってきて、「3時から処置します」と言った。ここからが、恒例のゆらゆらぐらぐらタイム。
まずは深呼吸して、例の「物事の、現時点を生きる方法を見付けてたとしたら、痛みはあるかもしれないが、苦痛である必要はない。」という一文を思い出し、「ほんと、その通りだよ」と納得する。ある程度その言葉で地盤を固めてから、処置のシミレーション。患部の周りに打つであろう、局所麻酔の位置のあたりをつける。「ここからはじまって・・・」そうして数えてみると、15箇所くらいはある。ちなみに注射針は垂直ではなく皮膚に並行して打つのだそう。ここで、これまでの注射の痛みが押し寄せてくる。
息苦しくなって窓の外を見る。そこには、さらさらと雨が降って、樹々の緑がゆっさゆっさと揺れている。南の方角から鳥が2羽、こんもりとした樹々の合間に飛び込んでいくのが見えた。
長らくの入院生活は、上げ膳据え膳のうえ、空調も常に27度に保たれている。唯一わたしがやることといったら、トイレやシャワーに行くことくらい。だから、いちにち200メートル歩いているかどうか。
その鳥を見ていたら、これから数日後に戻るであろう外の世界、あのワイルドな環境に馴染めるのかどうか、いまいち自信が持てない。(反対に、人間の適応能力の高さにも驚くのだけれど)
友人が貸してくれた、高橋源一郎の児童文学を途中まで読む。続いて、ユザーン監修の「ベンガル料理はおいしい」を読む。熊本のラビが焼いた緑茶クッキーを食べる。
ややあって、3時になった。
看護師さんが呼びにきて、どうやら1階の外来で処置をすることになったらしい。
かおりこさんからもらった布をお守り代わりに、初めての外来診療所に向かった。そこは主治医の城、勝手知ったる日々の糧の基地だった。
「ここの方がやりやすい、ってことわかりますか?」
そりゃそうだろうが、あえてそんなことを言われると、これから始まることがどれだけのものなのかと、深読みしてしまうではないか。
しばらく。
あえて処置のことは書かないでおく。痛みはというと、いつも通り平坦で、痛いか、痛くないかの二択だった。
「はい、もう終わりです。これが最後の痛みだと思います。」
そう主治医が言った。わたしが「痛みの千秋楽ですね。」と言うと、「はい、痛みのゴールです。」と念を押した。
「いい記念になりました」と告げ、4階の自分の病室に戻った。
ベッドに横たわると、たちまち緊張の糸がほぐれ、晴れ晴れとした、なんとも爽やかな気分になった。「あーせいせいした。もうおしまい。」
ふと、窓の外を見た。
・・・わたしは単純だ。
あからさまに外の世界が恋しくなってくるではないか。自然のなかで思い切り深呼吸したい。海風に吹かれ、川の音に耳を澄ませ、森の植物の濃さに包まれたい。そして何より、家に帰りたい。
そんな思いが泉のごとく湧き上がってくる。もう、大丈夫だと思う。「いつもの」自分が戻ってきた、という懐かしさ。
そろそろ「にしごーりさん、もう退院していいですよ」と言われる日も近いだろう。長い長い日々もまもなく終わる。

「インドに行きたい」

以前に波羅蜜の夏季休業のお知らせをしました。
その期間は、タイとインドにいくつもりで、せっせと準備をしておりました。とはいえ、いかんせん、このような状況になり。
大きな火傷というものは、発症から2週間くらい経過しないと、先の治療の目処が立たないらしい。なので2週間ひたすら待って、患部の損傷具合の判断を仰いだ。評価はところどころIII度の熱傷、重度認定。
1度目のオペが終わり、2度目。いちばん酷い箇所のオペをした達成感と安堵の気持ちから、夏休みの旅の件を主治医に伝えた。
8月は家族で旅行に行くこと。行き先はタイとインドということ。
かなりの確率で、「そんなの無理です」と言われると思っていたにも関わらず、あっさり「大丈夫じゃないですか。行けますよ。」と。
「え?行けそうですか?」「はい、多分。インドのために頑張りましょう!」
青天の霹靂、そこからが分岐点。「〇〇のため」という明確な「目標設定」が定められた。
がしかし、わたしひとりがそこに光を見出しても、心配している家族は何て言うだろうか。
まずは、ちょうどお見舞いに来た父に話すと、「何考えているんだ、まったく」とのっけから問答無用の相。「お店に迷惑かけてるんだから、旅行なんてやめて責任持って働くのが当たり前だ」という団塊世代の(?)正論をぶってきた。まぁ、父らしいといえば父らしい。
潤ちゃんの反応は、「ほんとにそんなんで行けるのか・・・」と、包帯ぐるぐる巻きの、まるで説得力のてんでないわたしの姿を眺めては訝しげている。そして、「いつでも行けるんだからさ」と、諭す。
「でもさ、でもだよ、ようやく退院して、で、旅行の自粛とか、あまりにも淋し過ぎる」と、泣きっ面のわたし。
自業自得&自己責任って言われたらそれまでだけど。
果てしなく潤ちゃんの表情は暗い。というか、超「やれやれ」といった感。
何かいい案はないだろうか。こちとら時間だけはたっぷりあるので、ひたすら「行ける道」を孤独に探った。
身体のため、そして予算も考慮し、旅行の期間をぐっと半分に減らしたらどうだろう。行きたい街はあまたありつつも、移動は極力控えよう。仮にわたしの体力がいつもの半分だとしても、その分、長男のりく(13歳)が補えるだろうから、そこそこ頼れるだろう。それに4歳のぬいも同行するのだから、わたしはぬいとペースを合わせて過ごせばいいのだ。
何より、あんなかわいい子たちと一緒に旅をするなんて、考えただけで胸がいっぱいになってくる。
善は急げ、前半に予約しておいたホテルや鉄道などをさくさくキャンセルしまくり、改めて日程を見直してみた。
 つい先日、かおりこさんがハワイ島のいろいろな植物で染めた麻の布をお土産に、はるばるこの病室を訪ねてくれた。話の流れから、今回の旅行を巡る一部始終を伝えると、かおりこさんは、「いいんじゃない。行ったらいいよ。先生も行ってもいいと言ってるんでしょ。」と、さらりと、でもきっぱりと言った。「インドが危ないとか日本が安全とか、結局はどこに行ったとしても同じことよね。」
頻繁にインドを行き来しているかおりこさんが言うと、途端に説得力が増すが、かおりこさんは単純に、(危険の)「確率」の話しをしているんじゃないだろう。
「それにね、時間ってね、思ったよりもずーっと限られているものなの。」
「いつでも行ける」と「時間は限られている」
このふたつの言葉のどちらにも吸引力がある。そして、やさしさも。違うのは、気迫・・・。
というわけで、粛々と、絶賛「気迫」の養成中。新しい皮膚を伸ばすリハビリでは、「そう簡単には破れないから大丈夫」という主治医のアドバイスの元、上がらなかった腕が少しずつだが上がるようになってきた。
いつまでもこのベッドの上で甘納豆とかつまんでいるわけにはいかないのだ。
「お尻に火がつく」という表現はまだシャレにならないけど。

「入院するなら、個室より相部屋の方が断然たのしい」


約2ヶ月に渡って、4人相部屋の病室で過ごしたけれど、その間の入れ替わりはなかなか激しく、中にはいちにちで退院したのか他の病室に移動したのか、「幻?」という人もいる。
カーテン越しのお付き合い、といっても、積極的にコミュニケーションを図ろうとする人は極めて少ない。
が、今わたしの斜め前に寝ている60代のおばさんは、ひとり言も多いけれど、「反応する誰か」に向けてしゃべりかけていることも多い。
「食事がおかゆだから、夜中にトイレに20回も行ったさ。もう寝られん、難儀やさー」
しばらく間が空き、おばさんの隣のおばあちゃんが「それはたいへんですね。」と相槌。
「眼鏡が盗まれた!わたしの眼鏡は上等で、ダイヤモンドがついているから5万円もした」と大騒ぎ。看護師さんからの「度は合ったんでしょうかねー」といった鋭い指摘にもめげず、「ダイヤモンドがくっついてから、それ目当てだったはず」と、完全に盗難事件だと思い込んでいる。その数時間後、本人のベッドの下から出てきたのはいうまでもなく。
またある夜は、すーっと見知らぬ一台の車椅子がこの病室に入ってきた。乗り手はおじいさん。「誰か、包丁は持ってらんかね」その言葉に仰天したおばさんは、すかさずナースコールを連打。やってきた看護師さんは、「あらあら、ここまで来ちゃったの」とおじいさんの車椅子を保護し、「この方ね、安全ベルトしてるから、それを切りたいって言うんです」と説明し、きゅきゅーっと戻っていった。が、おばさんは勝手に妄想が始まったらしく、「包丁あるか、って聞いてきよった。きっと誰かを刺すに違いない」と言い出した。
「もう、ひとりではトイレも行かれない。」と再びナースコールを連打。
わたしの隣の50代の女性は、夕べ、ものすごい寝言というか、うわごとを御披露した。「ヒャアーーーーーーーーーあふあふ、あぎゃーーーおおおおおおお!」
出産する夢でも見ているのかな、と呑気に聞いていたら、ここはまさかのおばあちゃんがナースコール。「なんか、うめき声が聞こえる」
看護師さんが、「え?どこから?」と聞くと、「わからんけど、大きな声でうなっている人がいる」
「あ、すいません、わたしでーす!」
そう50代女性の当人がシャキッと言うもんだから、「え?寝てたんじゃないの?」と内心びっくり。
他にも歴代では、「未だ現役でコザで働いている」というおばあちゃんは、「寝ようとするとマジムン(妖怪)が2000匹くらい襲ってくるから寝られない」と、看護師さんに訴えてた。その看護師さんの切り返しがまた秀逸で、「2000匹・・・この病室にそんなに入れますかねぇ」だった。おばあちゃんは、「いいから、塩持ってきて、塩!」と、塩をリクエスト。「これで安心して寝れるさー」とホッとしていた。
17歳の女の子は、夜な夜な彼氏が来て、面会時間は20時までだというのに、22時まで粘っていた。
入院したての頃にずっと隣だったおばさんは、特技欄に「こそこそ話」と書けるんじゃないか、というほど、極めてこそこそと話す技術に長けていた。看護師さんと話していても、看護師さんの声は聞こえるけれど、おばさんの声は聞こえてこない。でも驚いたことに、お見舞いに来た人も、同じようにこそこそ話しの達人だった。類は友を呼ぶ。ふたりが話している声は、もう声というかさざなみレベル。とはいえ、電話口ではごく普通の音量で話していた。
「助けて!助けて!助けて下さ~い!」と滑舌よく連呼するおばあちゃん、相部屋のみんなに、「これも何かのご縁だから」と、ポリデントを配るおばあちゃんなど、それこそ枚挙にいとまがない。
わたしもいつか、あんなふうに歳を取り、個性を丸出しにしたおばあちゃんになるのだろうか。
さて、今日はどんなやり取りが聞けるのだろう。
ひっそりと聞き耳を立てている。

「引き続き、相部屋の話し」


眼鏡が見つかったおばさんと、その隣のおばあちゃん。
しばらくカーテン越しだったのがいつのまにか、点滴2本を提げたおばさんは、おばあちゃんの敷居を点滴ごとまたぎ、かつおばあちゃんの車椅子に腰掛けて、朝からゆんたくしてる。
「これ、さっき売店で買ったんだけどよ、懐かしいわけよ」
「ああほんと、懐かしい。酸っぱい昆布さーね。」(みやこ昆布だろう)
おばあちゃんは、今回の手術で足の片方を切断した。だからベッドに上がるときは、看護師さんたちに手伝ってもらい、「よいしょ!」と日に何度も掛け声が響く。そんなおばあちゃんは現役で、名護でマンゴー農家を営んでいるらしい。
盛夏の今日、ちょうど繁盛期にも関わらず、ここでこうしているのはよほど忍びないのだろう、ご主人が面会に来ると、「なんにもできないさー」と申しわけなさそうに詫びている。そんなマンゴー農家の家業も、おばあちゃんの代で畳むらしい。
「息子はふたりいるけどさ、どっちもハルサー(農家)は儲からないからやだって。今はダンプの会社はじめて四名雇ってる。」
一方、辺野古の住民だというおばさんは、「もう、若い自分は昼は美容室やって、夜はスナックやってた。いっぱい働いて、子どもたちにいいとこ行かせようって昼も夜もなかったさ」
現在おばさんの娘は、大阪で医者をしているらしく、「内地はなんでも美味しいさ。よーく肉まん送ってきよる」(蓬莱551だろう)
「世に中には騙す人もおってさ、ある日は早朝に店の前に座ってて、わたしに『50万貸して』って言う。やだとは言えないから貸したけど、もう返ってはこない」
ある日はトイレに行く途中、他の病室のベッドを取り囲む看護師さんたちが見えた。ベッドには、70代くらいのおばあが何やらもめていた。
「退院はまだ許可が出てないよ。そんなしたら、辺野古に連れていってもらえないさー」「辺野古行きたいんだったら、もうちょっと我慢よー」看護師さんたちがおばあを説得している。
沖縄の雑誌、「モモト」を潤ちゃんが買ってきてくれた。今期号のテーマは「民主主義について」。
表紙は、元山仁士郎さんと嘉陽宗一郎さん。
辺野古基地を巡って意見が分かれるこのふたりの対談がいちばんの特集だ。
元山さんは、今年2月に行われた「辺野古埋め立ての是非」の県民投票を牽引したひとり。1991年、宜野湾出身の現役大学院生。
一方、嘉陽さんは1993年、名護市出身。現在はカヌチャリゾートの社長秘書である。
ふたりはリアルにSNS上でも繋がりある、「友だち」だと言う。そして口々に、「対立せず、対話で」と繰り返し、「対話から理解を深めていきたい。」と話す。
もっともだと思う。けれど、知りたいのはもっともっと奥の方、賛成反対といった意見に行き着くまでの、生い立ち含む個々のプロセスだ。それに賛成することへのリスクをもってなお、賛成するのか。(反対も同じく)きっとふたりは飲みながら、そういった込み入った事情も話すのだろうか。
だからこの特集は、まずは糸口の「兆し」を見せてくれたのだと思う。

「売店」

最近もっぱら行きつけの店、すなわち1階の売店に、愛用のガーゼ「モイスキンパット」を買いに行った。たぶん、私しか買う人はいないだろうこのガーゼ(在庫の減り具合から察するに)は、1枚180円。それを5枚と大判焼き(240円)を手にレジに向かう。新人のレジのおばさんは慎重に値段を打ち込み、「420円です」と言った。
このおばさん、また値段を間違えている。
この間もガーゼ5枚と水2本で、420円だか450円だった。潤ちゃんにおつかいを頼んだときも、「レジの計算がやばかった」と言っていたし。
「あのー、ぜったい間違ってると思います。だって、このガーゼは1枚180円だから」と言うと、「あ!」と急にあたふたして咳払いし、「このガーゼは入ったばかりだから」と、トンチンカンな言い訳をしながらレジを打ち直し、今度は「900円です」と言った。
惜しいっ。
ここが都会のコンビニならば今頃は、私の後ろには長蛇の列ができているであろう。
でもこんな調子だと、きっとなかには「ラッキー」とそのまま立ち去る人がいるかも知れない。いや、昨今の景気ではそんな人珍しくないだろう。
猛烈にあやういこのおばさんが、病院にひとつしかない売店のレジを担っているのかと思うと居ても立っても居られない。それとも、そもそも彼女の目的は、この売店を潰すことにあるのか。例えば過去になにか退っ引きならないことが起きて、その復讐のためとか。
テンパり気味のおばさんをボーッと眺めながら、妄想はとめどなく溢れていく。こんなとき、人は心の中まで見えなくてよかった、と思う。ときに見えたらどんなにわかりやすいかと、かすめることはあるにせよ、やはり見えない方がいいんだなと思う。
「ありがとうございます」ようやくガーゼと大判焼きを受け取って、売店を後にした。
と、ちょうどそのとき、前から主治医がスタスタと向かってきた。休み開けの主治医は、わたしが処置している両足大腿部が気になっていたらしく、「その後いかがですか?」と聞いてきた。「うーん」と言葉を濁したら、「こっちへ」と、速攻手近な処置室(救急用だった)に連行された。患部に貼ったラップをはがすと、「あー、やられてますね。感染してます。せっかくできていた皮膚が溶けている。」と言い、「あー、残念です。3歩進んで2歩下がる。」とまで言った。
・・・なってこった。
日に3度もこまめに洗浄し、せっせとラップにフォークで穴をあけては(浸出液を排出するため)ぴたりと貼り、大事に大事に育てていたはずの皮膚なのに。
しかしながら、どうやら痛いと思ったんだよな。でも痛いのは、肉芽が盛り上がってきた好転反応だと思っていた。
どうやら微熱があるな思ったんだよな。でもきっと夏のせいと思っていた。
痛みがあり、おまけに微熱もあるとしたら、「うーん」ではなく、「調子よくないです」と言うべきなのに、それすら認めたくない退院まであと2日。
巷で話題のラップ療法は、はがすときにちっとも痛くなくて最高と思っていたけれど、そんな上手くはいかなかった。(何かコツでもあるのだろうか、成功した方はぜひ教えてください)
結局は、殺菌消毒剤のゲル+ガーゼに後戻り。そしてこの処置も、またもや私の手に委ねられ。看護師さんたちはくちぐちに、「こっちでやってあげるのに」と哀れみを込めて言ってくれるけど、これも退院してからの予行練習だと思って修練を重ねていこう。
とはいっても、あの売店のおばさんだけが気がかりでで、このままおちおちここを後にしていいものだろうか。
今日もシフトに入っているか、様子を見にいこうと思う。

「看護師さん」

「断固として退院したいと、にしごーりさんが言ってますから」
そこまでは言っていない。けど、そろそろ引き際じゃないかと思っている。治りが遅い右大腿部はまだまだ楽観できないけれど、環境が変わればもしかしたらいい方向へ向かうかも知れない。
今日、退院。これからは外来通いが始まる。
「で、いつ頃、外来受診に伺えばいいんですか?」と聞くと、主治医「明日です」と。
切っても切れない縁にしばらくはお世話になりそうだ。
わたしが入院している4階には、ベッドが50床ある。看護師さんによると、常に稼働率は90%を超え、その入れ替わりも激しい。看護師さんたちはいくつかチームに分かれ、(ピンクチーム、みどりチームなど)各自、担当する患者を受け持つ。
入院生活最後の日は、せっかくなので、わたしのケアをしてくれる(た)看護師さんを紹介します。

Kさんは、小股の切れ上がった「くノ一」(くのいち)的女子。話し方も「自分は、〇〇っス」「そうっスかね」「そうっスよね」と、やたらと「ス」を差し込んでくる。髪は毛先10cmくらいの部分をターコイズ色に染め、つけマツゲはいつもビシッと、マスクを外している顔は一度たりとも見たことがない。
「Kさんは、旅行とか行きますか」と聞いたら、「いや、自分、太陽嫌いなんで」とミステリアスな返答が聞けた。シャワーの時、このKさんが背中を洗ってくれたりしていると、まるで「姐さん気分」。いつも言葉少なめで、余計なことはいっさい言わない硬派な女子である。

4月に入ったばかりの新米看護師Mさんは、看護師になった動機はお姉さんも看護師だから「自然な成り行きで」とのこと。
6人兄妹の末っ子とはいえ、随分しっかりしている。誰よりも勉強熱心な姿勢が「きっと、いい看護師さんになるな」と予感させてくれる。何より、わたしの火傷の経過観察にも熱心で、隙あらば、「にしごーりさん、背中、どうですか」と見たがるから、こちらも気前よく見せてあげる。薬についての質問も、すぐに調べて教えてくれる。点滴の注射もとっても上手だ。
くりくりっとした大きな瞳に小柄でぽっちゃりした、可愛らいしい弱冠22歳。

Sさんは、目鼻立ちのはっきりした、うちなー美人。主治医が「痛いですからね、痛いですよ」とさぞかし痛いであろう処置をしようとしたとき、わたしの手を握っていたSさんが、キッと主治医を睨みつける瞬間を見てしまった。それはまるで母狐が小狐を守ろうとしているような野生的な眼差しで、「この人は、頼れる」と本能的に感じた出来事だった。プライヴェートでは4人のお母さん。いちばん下の子はまだ1歳。「まーた熱出ちゃったみたいで、保育園から電話かかって来ちゃった」と、よーく早退する。Sさんは、そのお母さん的視点からか、ものすごく気が利く。痒いところに手が届くという、「届く」範疇が極めて広い。アンテナの感度がピーント張っているのだろうな。

Tさん。Tさんは千葉の出身なので、わたしも同じ関東圏ということあって、会話のテンポに馴染みがある。わたしの差し出した体温計を見て、「ヤッバ、熱あるじゃーん」「え、マジでー?」というゆるさのなかにキレのあるやり取りからは、葉山の某海の家OASISのやんちゃな仲間たちを思い出す。ちなみに沖縄ならば、「あー、熱あるさーね」「あっさみよー」になる。(のかな?)
そんなTさん、ある日髪を留めるバレッタがシャネルだった。「お、シャネルのバレッタ?」と聞くと、さーっと顔を赤くして、「これさ、違うの、マークだけはがしたの。バリバリって。で、ボンドで貼ってみた」ほんとだ、よく見ると、ボンド跡が周りに白っぽく残っている。「でもさ、実はマークも本物じゃないの。韓国で買ったバッタもん。あーー恥ずかしい!そこ、見ちゃう?」と、自分でやっておきながらそういう切り返しをするあたり、やはり関東圏だなと思う。

Tさんは、看護師であるにも関わらず、痛そうな箇所を処置するのはなるべく避けたいらしい。「ここ、痛い?え?痛い?じゃ、にしごーりさん、自分でやってみる?」とその主導権のバトンをすぐにわたしにゆだねようとする気弱なTさんが面白くてならない。

他のチームも個性豊かで、「そんなしたらあかんねん。深呼吸してな、気合いいれんと」とドスの効いた声でおばあに喝を入れる関西圏の看護師さん、「きゃあああ、すっごい!すっごいじょうずにでけたねぇー」と声優並みの声色でおばあのリバビリを褒めちぎる看護師さん、「わたしたちのことより、まずは患者さん。患者さんが何を望むか。それに応えるのがわたしたちの使命なんだから」と、ベッドのシーツを取り替えながら、こんこんと後輩を指導する年配の看護師さんなど、ほんとにみんなそれぞれにいい人。入院してから一度だって「ちいさないじわる」(by ダライ・ラマ+吉本ばなな)みたいなことを感じたことがない。約2ヶ月間、大切に扱われ、気を配られ、何かにつけて労ってもらった。
当然ながら、「感謝しかない」のだけれど、たった6文字で書いてしまうのが憚れるほど、ほんとにありがとうございましたの嵐です。
元気にインドに行った折には、現地から絵葉書送ろうっと。

「セカンドオピニオン」


退院したので早速行ってきました、セカンドオピニオンin北谷。
介護職の経験がある友人からの助言をもとに、許田から高速で沖縄南までひとっ走り。
昨夜、ジンジンと継続してしつこく痛み続ける右大腿部にとうとう「キレて」、シャワーで患部をとにかく洗ってみよう、と思い立った。今までは、とにかく炎症が邪魔をして、シャワーの水圧すら悶絶だったので、限りなく消極的にさっと洗うくらいの洗浄しかやっていなかった。でもなぜだかわからないけど、突発的に親の仇を取るぞみたいな衝動にかられて、脇目も振らずガシガシ洗った。患部をよーく見ていると、白っぽい繊維がどんどん流されていくのがわかる。これが多い箇所ほど痛みがつよい。この繊維質を触るとぬるぬるしている。洗い続けるとその傷が、ぬる、くらいになり、試しにこれを、ぬ、くらいになるまで洗ってみた。
こうして洗い上げた患部にワセリンを薄く塗ったモイスキンパッドを貼った。そうしたらなんと、痛みが半減している。もしやあのぬるぬるこそが、痛みの発症元だったのでないか。

調べてみたところ、どうやらあのぬるぬるは、「バイオフィルム」なるバリヤーを張りめぐらし、いざというときには消毒から身を守っているらしいのだ。だから消毒ゲルをいくらたっぷり塗ったところで太刀打ち出来ない、という衝撃的なことが書いてあるサイトがあった。
さて、ぬるぬる除去からの痛みが和らいだこのコンディションで湿潤療法に再度トライしたら、もしや快癒に向かうのではないか。
そんな一縷の期待を胸に、北谷行きを決めた。

訪ねたクリニックは、町医者ならではの手作りの装飾があちらこちらに施されていた。医師なのか看護師さんなのか、アンパンマンを描くのに長けている人がいる。
冷房の効いた待合室で、持参した星野道夫の単行本を読みながら、しばし待つこと20分。
「にしごーりさーん」と診察室から名前が呼ばれた。
諸事情及び状況をひと通り伝えると、「従来のやり方に慣れ親しんだ医者は、なかなかあたらしい処置(湿潤療法)に踏み込もうとしない。結果として『消毒+ガーゼ』という意味のない処置が一向になくならない」と。
続けて、「ラップでも処置さえきちんとやれば治ります。でも、不慣れな人がそれで失敗をして、安易に「ラップ療法は効かない」となってしまうと、次に火傷や傷を負った人に湿潤療法が伝わらなくなる。それが問題です」というようなことを、限りなくソフトに言った。でもその言葉尻には、「悔しさ」がありありと滲み出ていて、さぞかしもどかしい思いを抱えているのだろうと察した。
このクリニックの処置は、患部をきれいに洗ったあと、ワセリンを塗った「ズイコウパッド」なるものを患部に貼る。ズイコウパッドはモイスキンパッドに似ているが、いちまい110円と70円安い。処置の際の痛みはなく、モイスキンパッドより傷にはくっつきにくい。
この療法の元々は、「湿潤療法」の第一人者である夏井睦先生だ。
北谷のこのクリニックは、夏井式で研鑽を積み、夏井先生のホームページにも紹介されている。この夏井先生のホームページが、http://www.wound-treatment.jp もう圧巻過ぎてひっくり返りそうになった。とくに必見なのが、「人体実験シリーズ」。
夏井先生自ら、腕に粘着力のつよいガムテームを50回ほど「貼ったり剥がしたり貼ったり剥がしたり」を繰り返し、「皮膚損傷モデル」を作る。そこに、「半分はそのままなにもしない、半分は〇〇軟膏をつけるなどの実験をして、時間の経過でどんな症状になるのか観察する、というもの。それも1回ではなく追試をするという徹底ぶり。この実験で試している軟膏はいろいろあったが、わたしが入院時代に馴染みのあるものが3種類くらい出てたので、それをクリックしてみた。
結果はなんと、ぜんぶダメ。
「まるで19世紀の処方だ」からの、「クズ薬剤の殿堂入り」とまでこき下ろされているものもあった。
「そんな言い方しなくても」と凹みつつ、読み解くとこの超辛口の源は、患者の痛みを増幅させる「消毒+ガーゼの撲滅を目指して」といった熱意ゆえ。
だからといって、入院していた病院の主治医がよくない、ということではない。あまりにも痛がるわたしを苦心して、主治医は主治医なり見解で、できる限りのことを誠意持って施してくれた。
ただ、施される側に疑問が少しでもあったなら、ひとつの病院よりふたつ、みっつと門戸を叩いた方が納得する療法に出合える確率が上がる。
というわけで、通院日記はまさかのアナザーホスピタルからお送りすることになりそうです。ここの先生は、首元の擦り切れたTシャツとほつれたオペ着(?)が印象的。グランジファッションなのか、単なるもったいない精神なのか。(きっと後者だな)
それにしても、他人に身体を委ねるのはなかなか勇気がいること。常に自分が問われている。そんな感じがする。

「治る身体」

まるで夏休みの朝顔日記のように、「今日は双葉が出た」だの「今日はつるが伸びた」といったように、メキメキとよくなっていく右大腿部の傷の経過をつぶさに観察している。
退院した水曜日の時点では、傷はぶくぶくと赤く腫れ上がり、その姿はまるでランチュウ。おかげで手すりがない家の階段の上り下りは、痛む足を引きづりながら、一歩一歩両足を揃えてしか前に進めなかった。ところが今は、トコトコと何の遜色もなく歩くことが出来る。
この差はいったいいかがなものか。と。
特別な薬を投与したわけでもなく、食事制限をしたわけでもなく、ユタさんに除霊してもらったわけでもなく、ただ水道水で徹底的に洗ってくっつかないガーゼで覆っただけで、こんなにも傷の状態に変化があるなんて。今日なんて、リハビリを兼ねて洗濯物まで干すことができたという快挙。
退院した開放感、そして快癒の兆しから、普段より3割り増しの上機嫌で日常を送っている。
しかしながら、あのまま「ガーゼ+消毒液」の処置だったらと思うと背筋が凍る。炎症をおこしている患部にいくらイソジンゲルを施しても、その消毒効果が期待できるのはせいぜい15分とか。となると、残りの23時間45分はいったいどうなるの?
「うーん」と、疑問が次々と頭をもたげる。でも認めなきゃいけないのは、病院生活に於いて、わたしはすっかり主治医に依存していたんだなぁと思う。たまに思いつきで試してみたいことがあったり、薬のことで看護師さんに相談しても、「先生に聞かないと」のひとことで、「ま、いいか」とあっさり引き下がっていた。病院にいる以上は、(聞き分けの)「いい患者」になろうと無意識のうちに振舞っていたのだろう。それで傷が良くなればよかったけれど、今回は「幸運にも」どんどん悪化傾向を辿った。「自分のことなんだから、自分の頭で考えよう」ってことだな。調べようと思えば、真偽のほどはさておき、今の時代はいくらでも情報が出てくるのだから。
しかしながら、医者の肩にのしかかる「リスク」と「重責」の圧力はどれほどのものなのだろうか。
来る日も来る日も病人で溢れかえった待合室。おのずとひとりひとりに配分される診察の時間は限られている。
「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず。」(『論語』とよやまさんの訳語によるところの)「これが『できる』者は、これが『わかる』者に如(し)かず。これが『わかる』者はこれを『面白がる』者に如(し)かず。」という姿勢で、患者と向き合うことが叶う医者がどれだけいるのだろう。
たとえ「なんかおかしいなぁ」とよぎっても、それを検証する時間は到底なく、結局は教科書及び従来の方法に則して処置をするしかない。でもこうなると、志のある医者ほどルーティンに耐えきれず辞めてしまうか、こうしている今も孤軍奮闘で立ち向かっている医師もいるのだろう。
何もこの構図は病院だけではなく、学校も会社も似たような状況に置かれているのかも知れない。

「主治医との再会」

約1ヶ月もくすぶっていた目の上のたんこぶ的な箇所、右大腿部。それが「湿潤療法」のおかげで、たった3日で劇的に治癒している。
まるで5月の芝生のような繁殖を遂げているこの太ももの皮膚を見た主治医は、きっと目を丸くしてこう言うだろう、「どうしたんですか?」と。
ただし、ここは慎重に。主治医にもプライドってものがあるだろう。ここはひとつ湿潤療法普及のためにも、へまするわけにはいかない。少なくとも2ヶ月の入院生活に於いて、それなりの信頼関係を築いてきたのだから大丈夫。
いたってカジュアルに、「ようやく治ってきたんです、やったね♡」というノリでいくことにしよう。

いざ、診察室。入り口付近に掲げてあるこの病院の信条、「患者様と当病院側において、お互いに助け合って医療の発展を向上する」云々といったような項目を、今一度黙読した。
「にしごーりさん、まだ痛みますか?」と開口一番、主治医は聞いた。眼鏡越しに、心配そうな瞳が伺える。
「それが、全然なんです。患部を徹底的に洗ったら、痛みがぐんと和らいで」
「ほう、ちょっと見せてください」主治医は興味有り気な反応を示した。
さて、ここからが本番だ。これから見せる患部の処置は主治医の指示とはまったくの別物。その理由をさらりと簡潔に、「試しに湿潤療法を専門にしている他の病院に行ってみたんです。」と、明るく自白。
すると、「ほーら、だからよく洗ってくださいって言ったのに。こうなるんだったらもっと厳しくすればよかった。」
「へ?」この思いがけない展開に、しばし鳩に豆鉄砲タイム。(ここからは全部、こころの声)
武士→「おお、そうきたか。おぬし、まさかの保身に回りよったな。」
ぬるぬる→「あなたは知っている?わたし『ぬるぬる』の存在を。それもこの『ぬるぬる』は洗っていくうちにどんどんなくなることを。そして『ぬるぬる』こそが、痛みの原因であることを。きっと知らないよね?なぜならあなたはいつだって、わたしに触るときは使い捨てのビニール手袋をしているもの。手袋越しではぬるぬるは触感できやしないのよ。ちなみに専門用語ではね、『バイオフィルム』っていうのよ。でもちょっとむずかしいから、『ぬるぬる』ってあだ名で呼んでもらっているのよ。」
わたし→「はい、ここで質問です。たとえわたしに処置を任せていたとしても、入院中のわたしの傷は、あなたの手中に治められていたんじゃないですか?」
それでも湿潤療法の会話を続けたくて、「あ、そういえば、ラップ療法もコツさえ掴めば難しいことはないみたいですよ。」と言ってみた。そばにいた若い看護師さんがすかさず「ラップ療法?それ何ですか?」と聞いた。
「怪しい療法ですよ」と主治医。
「で、どんな軟膏塗ってるんです?」
「ワセリンだけです。」
「じゃ、もう来ても来なくてもいいですね。はい、お大事にね。」
出会いと別れはとつぜんに。
わかってもらえないジレンマとわかって欲しいというエゴ。
端的に、今のわたしでは説得力に欠ける、ということに尽きる。
さりとてこの火傷、「後遺症」として、まだまだ治療がひつような箇所がある。というのは「瘢痕」(ひきつれ)という症状とこの先どう向き合うか、どんな処置がいいのかを模索しなきゃならない。
退院して、こうして能動的に動くことによって、これからが、「ほんとの治療のはじまり」なんだなぁと思い知る。
世の中、まだまだ知らないことばかり。


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