自身の生まれ育った環境について①
自分の生まれ育った環境や親のことをよく 考える事が子供の頃からあり、ずっとルーツを辿りたいと考えています。 現在私は42歳。うだつの上がらない人生を 送っていますが、長くなるこの話を聞いて ください。 環境のせいだけにするつもりはなく、自身の 努力不足が故に現在の己がいると思って いますが、それでも何故こうなったのだろうと思い返す事が若い頃から何度もあります。 私の生まれ育った環境は東京の多摩郊外。 育った家は築年数50年以上の木造家屋 賃貸でした。本当にボロボロの家で小学校 に上がるまでは汲み取り式のトイレでした。 途中飛行場付近地域なのもあり、防音工事 のおかげで一度内部を改築、水栓トイレに なりましたがそれでも本当に古く傷みも あり、風呂場は後から横に足したプレハブの ようなものの中にあり そこに外に繋がる ドアもあった事から小学生の頃はクラスの 男子から毎日、玄関開けたら風呂〜とか、 汚ねえ家に住んでいる!とか貧乏人などと 呼ばれていました(虐め) 台風や地震でいつ壊れるかわからない 上、虫やナメクジも常に家中にいる、 ねずみもいるような家でした。 兄、姉2人、父母含めた7人家族で私と 兄とは10歳も歳が離れており、当時は不良 全盛期の時代もありましたがこういう家庭 環境も災いして兄や姉はグレていました。 大人数の為、兄姉がいた頃は4人で一つの 部屋をあてがわれ、また襖しかない部屋の 為常に全開に開けられており、隣の食事を する部屋とは隣接していてプライバシーの 概念は一つもない家でした。 父親は近場の工場勤め。母は掛け持ちで 様々な仕事をしながら(いつも違っていて タウンワークの配達とか寿司屋のパート とかメナードの訪問販売とか)基本日中は 街のパチンコ屋でセミパチプロみたいな ことをしていました。 兄や姉と、父親の仲が悪く父親が横暴な 性格であった為、家庭内は常に荒れて いました。父親は自分の気に食わない 事があると強い怒鳴り声で威圧し、食膳を ひっくり返し、また酔って暴れては壁に 穴を開け続けるような性格で、かろうじて 身体的暴力だけはしたことがない人でした。 家の中は父の開けた穴だらけの壁で 見るたびに嫌な気持ちになっていました。 また母も気が強く負けん気が強い人で 兄が不良と付き合おうとすると包丁を 持って止めに行くような人でした。 父は意外にもギャンブルが嫌いで、やっても 宝くじを買う程度の人だったのに対し 母は父に隠れてパチンコをしていました。 何度かバレそうになると、幼い私に父が 母がパチンコ屋に行ってないか聞くのですが 私は圧倒的に母が好きだったのでどんなに 圧をかけられても黙っていました。 私の幼少期や小学校時代は母とパチンコ屋 と共にあり、学校から帰ればいつも母の いるパチンコ屋に出向いて同じように来て いる常連の年もバラバラな子供らと毎日 遊んでいました。上の姉はよく私のことを ぱち友?とからかってきて、学校に友達が いない自分はいつも恥ずかしかったです。 実は未だにハッキリと言われた事が一度も ないのですが、私と兄姉は半分しか血が 繋がってません。兄と姉は父が違うらしく 母の連れ子でした。再婚後私が産まれた ので、父は私としか血が繋がってません。 小学校の頃、私と8歳離れた高校生の姉が 母親に、あんなの私の父親じゃないと 言い放ちました。それを聞いた母はシッ! と姉に合図して、妹の前でしょと怒り ました。私はわかってないフリをしました が、その時に全てを悟りました。 現在ではそのことは暗黙の了解として 私もわかっているものとなっていますが 振り返ると誰からもハッキリとお前と 兄姉の父は違うんだよと言われたことは ありません。 母は兄姉を京都で産んだ後、DV虐待を する旦那から子供らを連れて東京へ逃げて きたらしかったです。 割烹屋の雇われ女将をして、そこで父と 出会い父にしつこく口説かれて結婚した ようでした。 当時の父は定職に就いてもすぐに辞める ようなダメな人らしかったのですが 私が生まれると定年まで同じ工場に 勤めていました。 母は元旦那から逃げてきていた為、当時 タウンページに電話登録をする家庭は 普通に多かったのですが、我が家は載せる 事ができないでいました。 兄や姉からすると、虐待する父親から 逃げてきたのに再婚相手の父まで横暴な 人だった為地獄のような子供時代だった と思います。まだ兄や姉も子供の頃 幼少の私の子供用パズルがいたずらで ホチキスで留められていたことがあり ました。それを見た父親が激怒し、兄や 姉を問い詰めましたが誰も名乗らず さらに激昂した父親が真冬に兄や姉を 外の玄関に裸足で立たせていた記憶が あります。