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これまでとこれから②

こんばんは。
関西学院大学体育会アメリカンフットボール部 本田夏樹です。前回のnoteを読んで下さった方、ありがとうございました。

想像以上の反響があり、大変嬉しく思います。
今回は前回の続きになるので、未だ読まれていない方はぜひ読んで下さい。

関西学院大学へ入学

学生日本1を4連覇中のアメフト部に入部

中高6年間のアメフト生活を経て、関西学院大学社会学部へ入学しました。

高校時代から仲の良かった同ポジションの先輩に誘っていただき、体育会アメリカンフットボール部に入部しました。

尊敬できる先輩方との日々のキック練習は本当に楽しかったです。下級生から試合に出場することを目標に日々の練習に励んでいました。

2020年9月13日

2020年9月13日。夕方から練習開始の為、昼過ぎに電車に乗車していました。すると突然、頭が破裂しそうになるほどの頭痛と首から下の痺れが私に襲い掛かりました。

途中下車し、駅のホームで横たわりました。練習での脳震盪による症状なのはないかと感じ、身体を引きずりながら自力で病院に向かいました。

緊急でMRIを撮ったものの、脳に異常はないと診断されました。

その後、耳鳴り、激しい頭痛、吐き気、めまいが止まらない生活が続き大学にも行けなくなってしまいました。

数々の病院を渡り歩きましたが、「脳震盪の疑い」と診断され続けました。

脳脊髄液減少症と診断

症状が出だしてから1か月半後、明舞中央病院の医師から「脳脊髄液減少症」と診断されました。

そこで医師から、「二度とベットから起き上がれなくなる可能性がある。今後の人生でスポーツをすることは出来ないと思っておいた方が良い」

と告げられました。

母親と医師の前ということもらあり、強がって一切表情を変えませんでした。

帰宅後、自室のベットの上で横になりながら明け方まで泣きじゃくりました。

これから一生寝たきりの生活を送ることになる恐怖、二度とアメフトをすることが出来なくなる悔しさ。

その後も、追い打ちをかけるように強い自覚症状が私を襲い続けました。

人生を変えた入院生活

診断が出て三日後。兵庫県明石市にある明舞中央病院で長期間の入院生活を送ることになりました。

減少した髄液を戻す為に、24時間寝たきりの状態で点滴を打ち続ける生活が始まりました。

人生のどん底まで落ちた

この頃、首から下の感覚が日を重ねるごとに弱っていき、携帯すら見られないほどの視機能障害と頭痛が出ていました。 

その為、日中もカーテンを閉め切り、真っ暗な部屋の中で一日中横になっていました。

それに加えて新型コロナウイルスの影響で面会が全面的に禁止され、誰とも会話することなく寝たきりになる生活を続けていました。

活躍する同期を病室のテレビで見ていると「俺は何をしてるんだろう」と更に追い打ちをかけられました。

この空間で寝たきりになる生活を送っていた


入院して10日が経つころには鬱病に近い症状が出始めていました。ブザーで看護師を呼び「死のうと思う」と何度も言っていたそうです。

「人ってこんな感じで死んでいくんや」

気づけば髪の毛は抜け落ち、顔はやつれ体重は20kg近く減少していました。

ある小学生との出会い

いつも通り横になっていたある日、同じ病室に小学5年生の男の子が入院してきました。

彼はこの病が原因で二年間も入退院を繰り返しているにも関わらず、真っ暗な部屋で横になりながら学校の教科書を必死に解いていました。

自分はどれだけ環境に甘えているのか、その光景を見てハッとさせられました。

そこから社会復帰に向けてリハビリはもちろん、これまでお世話になった方々に現状を報告し、ヒントを得ることにしました。(このときお世話になった元野さん、山崎さん本当にありがとうございました。)

また、日々の僅かな成長を記録するために就寝前に日記をつけることにしました。(この日から現在に至るまで一日も休まずに日記をつけ続けることが出来ています。

毎日書き続けている日記


上記の取り組みを行い続け、寝たきりの中でも日々少しずつ成長することが出来ました。

社会復帰

脳脊髄液減少症と診断されて2か月後。この病を治療する為に、月に一度のペースで硬膜外生食水を体内に注入することになりました。

しかし、打てる回数は決まっておりこの治療で改善されなければ社会復帰は絶望的でした。

脊髄に針を刺す為、失神しそうになるぐらい強い痛みがありましたが歯を食いしばって我慢し続けました。

三回目の注射を終えたときには自力で歩けるようになり、症状もかなり緩和されていました。

2021年4月。症状は残存していましたが、退院することが出来ました。5月には大学にも通うことが出来るようになりました。

私は奇跡的に九死に一生を得ることが出来たのです。

逆境の中で出会った自分の使命

社会復帰出来たものの二度とアメフトをすることが出来ないと告げられていた為、アメフトをしている人を嫉んでいました。

アメフトに関することをすべて遮断し、休学期間の学業の遅れを取り戻す為に自宅で勉学に励む日々を送っていました。

しかし、何の目標も持たずに毎日同じ生活を繰り返すことに苦痛を感じていました。

「今の自分に出来ることは何か」

この問いを半年間自問自答し続けた結果、自分を一番成長させてくれた母校の中学アメフト部に学生コーチとして恩返しをするという結論に至りました。

監督と中学アメフト部の顧問と何度も話し合いを重ね、2021年8月からアメフト部の部員として中学アメフト部のヘッドコーチとして活動することになりました。

1年半でチームを改革

そして、中学アメフト部のコーチとしてスタートしたものの顧問や監督が学校業務で不在の状況が続いていました。その為、指示を出す者がおらず組織が崩壊していました。

練習開始時刻に間に合わない、練習中に地べたに座る、挨拶返事を一切しない、敬語を使えない、、、

何から治せば良いのか分からず苦しい期間が続きました。華やかな会場でプレーする大学の同期を見ていると「本当にこの決断で良かったのか」と何度も考えさせられました。

しかし、私は独学でコーチングや心理学を1年かけて勉強し指導に活かし続けました。

その結果、選手が主体的に行動するようになり、昨年度は関西大会準決勝まで勝ち上がることが出来ました。

独学でコーチングを学び、指導に活かし続けた

また、今年に入ってから毎月、他部活から新たにアメフト部に入部してくれる生徒が出てきていることからもチームの雰囲気の良さを読み取ることが出来るかと思います。

今では中学アメフト部のコーチとして活動する選択をして本当に良かったと日々感じています。(この1年半で私がどのように組織を改革したのか、別の回で細かく書いていこうと思います。)

1年半の闘病生活で得たもの

チームに来た当初、教え子の中学生たちと

私がこの闘病生活で得たものは大きく二つあります。

①  生きているだけで丸儲けであるということ
② ピンチの中にしかチャンスは存在しないということ


この1年半、数えきれないほど涙を流してきました。

しかし、死にかけたお陰で1日1日を無駄なく大切に過ごせるようになりました。

また、「あのときに比べたら」というマインドがついたおかげで簡単には折れないメンタルを手に入れることができました。

19歳で地獄に落ちる経験が出来たことは、今後の人生で間違いなく活きてくると確信しています。

ここまで読んで下さりありがとうございました。

次回、今後の人生で何を成し遂げたいのかについて書いていこうと思います。



続く、、


お知らせ


来週14日の日曜日に明石市で100人の患者の前で講演することになりました。


当日、Youtubeで無料配信があるのでぜひご覧ください



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