かつてのゴスロリ少女は自問自答する~愛をとりもどせ!!
前回のノートで、推しを勝手に好きになって勝手に萎えた話をしたわけだが、実はこれ今のファッションにも大きく関わっている話だったりする。
私が推しに会いに行こう、追いかけようと思った時にまず困ったのは服だった。服がない。正確に言うと「推しに会いに行ける服がないとその時の私は思った」
私が過去どんな服を着ていたかと言うと、バリバリでゴリゴリのロリィタ服だった。どちらかというとゴス・クラシカル寄りだったが、所謂甘ロリ系の服も何着か持っていて、小物も靴もそれに合わせたものばかりだった。
ゴスもロリも大好きだったが、三十手前でどうあがいても垢ぬけられない自分に絶望し、三十路を過ぎてロリィタ服は着られるのか問題に直面し、「ロリィタ=オタクファッション=痛い」みたいな声を気にかけ、「もうちょっと……気持ち……落ち着いた服があったほうがいいのか……?」と惑った日和った結果、フリルもレースもついていない「普通の服」も多少持っていたが、あくまでそれは「仕事着」であって「よそ行きの服」ではなかった。
じゃあロリでもゴスでも着ていけばいいじゃん気に入ってるんでしょ。という話なのだが、ほぼ初めての「三次元の推し」に出会ってしまった私は推しから「変な奴」「イタイ奴」と思われたくなかったのである。
自分の格好が男性ウケしないことは理解していたし、前のエントリーでも書いたが私と推しは多分絶望的に趣味嗜好が合わない。ゴスロリ女が目の前に現れたら、内心引きこそすれ、好感を抱くことはないだろうと私は予想した。
あと悪目立ちしたくなかった。俳優のおっかけ界隈というのは圧倒的女性社会である。女子校出身の私は、女子のコミュニティのいいところも悪いところもよく知っていた。変な目立ち方をしたら陰で何を言われるかわかったものではない。わざわざ匿名掲示板を覗きに行ったりはしないが、怖いお姉さんに目を付けられたくない。
そういう理由から、私のクローゼットには推しに会いに行ける服がなかった。由々しき事態である。
とりあえず「普通のお姉さん」に「擬態」できる服を探して着よう。
そう決意した私は「普通のお姉さん」っぽいと思う服を増やしていった。普通と言ってもかなり甘め・クラシカルなテイストの服が多かったし、アクセサリーはほぼそのままだったので兎の首が連なったネックレスとかつけていたし、冬場大物の準備が間に合わずゴブランのコートとか着ていたので、今思うと「普通のお姉さん」に擬態できていたのかは甚だ疑問だが、とにかく私は必死に「ロリィタ以外の服」に目を向けるようにしていた。
マルイワンでもラフォーレでもなく、ルミネに足を運び、今まで着たことのないテイストの服をわざと選んで着る。組み合わせよくわからんなってなっても、ワンピースか店員さんに勧められた上下を買っておけばまず間違いないしね。
そうやって服を選び、数年が過ぎたころ、自分がどういうものが好きだったのかよくわからなくなっていた。今着ている服、推しに会いに行くために買った服が嫌いなわけではない。可愛いと思ったものしか買っていないはずなのだ。でもなんというか「生きやすい」けど「面白くない」
かつて私はあらゆる心をささげて服を選び、それを身に纏うことは精神性の主張ではなかったか。絶対に着ない、と心に決めていた色が、形があったのではなかったか。持っていたワンピース一枚一枚、スカート一枚一枚にコンセプトと物語があったではないか。今はどうだ。あらゆる意味で半端なしろものが出来上がっていないか。というか気づかないふりしてたけど服と顔があっていないのでは?????←今ここ
私の失敗は「自分の価値観を他人の価値観(に酷似した自意識)に丸投げした」ことだ。世界は移ろうのだ。自分の興味嗜好で付き合う相手や足を運ぶ場所も変わっていく。軸足を移ろう側に置いていたら、動いたときにバランスを崩すのは当たり前だ。ファッションは自己表現だ。存在の発露だ。擬態した方が生きやすい、なんて日和った私が悪い。好きなものを捨てることなんて、簡単にはできないと知っているのに。
「普通のお姉さんごっこ」も楽しかった。これは本当だ。シンプルなニットって着回ししやすいね、ってことも気づけたし。でもこの数年着ていた服は「私のための服」ではない。
自問自答を始めた当初は、私は何が好きだったのかよく分からない……という状態だったが、最近ようやく分かってきた。
私はやっぱりゴシック・アンド・ロリータが好きなのだ。
三十路を過ぎた?もはや不惑?そんなことはもう知らぬ。
雀は百まで踊りを忘れないし、痛かろうが厨二と失笑されようがオタクファッションと言われようが、好きなものは好きなのだ。これはもう精神的な十字架のようなもので、一生降ろせないのだ。
美しくて繊細で、不気味で、不安で、どこかで見た古い映画のような、悪い夢のような世界。退廃と死と静謐の世界。それが好きなのだ。観念します。私はそれを愛しています。
少々脱線するが、多分、好事家ジュネさんのYouTubeチャンネルを見だしたことも自己の嗜好を取り戻すきっかけだったと思う。
暗く悪しく美しい闇のカルチャーについて膨大な知識をもとに、軽妙であるのに、絶対的な矜持と美学、なによりも愛を持って話を展開するその姿に、ああ私はこの世界の住人になりたかった、ずっとそうだったのだと思い出すことができた。
彼女の取り上げる話題は私の好きな物しかない。好きな話しかしないチャンネルなんて、そうそう存在しない。しないはずなのにあるということは、つまりはそれが最早私の核ということだ。
きっとこの動画に救われている少年少女が、そして、かつて少年少女だった「私たち」がいる。本当に感謝しています、ありがとうございます。叶うなら高校生の私に見せてあげたい。
ほんと、面白いので同好の方でご存じない方はぜひ。ファッションについての話をしている動画も面白いけれど、個人的にはサブカルチャーについての動画が好き。
さて、ゴシック・アンド・ロリータが好きと思い出せたのはいいが、過去着ていた服をそのまま着たいかと言うとそうでもない(ものすごく気に入っていてどうしても処分できなかった、今でも着たいと思うワンピースは一着あるが)
私の趣味嗜好も少し変わったし、年も重ねている。着て「美しい」と思える服も変わっているだろう。それを見つけなくてはいけない。
今気になっているのはabilletageのロングのマーメイドスカートにコルセットというスタイルだ。……ここ数年で腰回りがバグっている(これはバグ。あきやさんもバグって言ってた)のだけど、コルセット、きれいに締められるだろうか。
明確なコンセプト出しもしておきたい。もう自分が「オタク」で「ゴス」で「サブカル好き」な人間であることからは逃れられないと悟ったので、これを落とし込んでいけばいいのだろう。暫定で「ゴス審神者(仮)」とすればいいだろうか。近侍は長谷部くんを据えよう。彼の出で立ちなら私がコルセットを締めて隣に立っても浮かないと思うし。
あきやさんは「エモいものを身に纏いなさい」と仰る。
なんと端的かつ的確な言葉だろうか。
エモいものにはそこにストーリーがある。物語が存在する。それは服やアクセサリーそのものが持つ物語であったり、そのアイテムと自分の物語であったりするだろう。
それは人それぞれだ。私の場合、その「物語」を感じるものが、たっぷりのフリルであったり、繊細なレースであったり、ぎょっとするようなテキスタイルであったりする。無味乾燥でただ「可愛い」服よりも、私は物語を身に纏いたい。
ところでさっきからずっと脳内で「愛をとりもどせ!!」が響き続けている。いや、文脈的には正しいのだけど。そこはせめて、アリプロの「少女貴族」とかにしてくれ……こういうところが気高く美しいディレッタントになれない由縁なのだ。つらい。
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