私の愚痴を応援してくれ
現在、私は人事にいる。新卒採用の真っ最中である。内定者を集めたイベントの中で、マネージャーが「あくまで、ひとつのモデルだけど、27歳になったら、700万円以上もらえます。700万円ってすごくないですか?」と放った一言に、私は不意に傷ついてしまった。
仕事と真面目に向き合ってきた自負のある私は、30歳を過ぎた今も700万円に未達である。それは、私が欠陥品だからなのか。会社はその準備があるのに、そこに辿り着かなかった私に原因があるのか。
こんな直球に傷つくには、私は歳を取り過ぎていて、自分の置かれた境遇や自分のスキル、度量、性格、いろんなものを理解しているはずなのに……。なぜ、傷ついた?
まだ、私は自分がしごとができると、信じていたいのか。
かっこわるい。
プライド・・・。
と、いつものネガティブを発揮している自分は、実は今、変わろうとしている。
このかっこわるさやプライドを、おもてに出していきたいのだ。
そう思ったきっかけは、カウンセリングだった。
カウンセラーとの話の中で、私の思考の癖の原因を探る。私がどうして「良い子ちゃん」でいようとするのかを探ったときに、人に失望されるのが辛いという一面があった。だから、できるだけ、他人から感情穏やかに見られるように生きていた。
さらに、大学生の時に影響を受けたのが、村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』である。
“誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。”
私はすごく共感した。このように生きていけると、当時は思った。だから感情を出さないことを自分に課して、そのぶん文章を書いたり、身体を動かしている自分を好きになった。
しかし、それでは、うまくいかない場面が出てくる。
たとえば、人に対して怒りを感じた時、私は身体が震えてしまう。手も足も震えて、涙があふれてきて、何か言いたくてもそれどころではなくなってしまう。涙を堪えることに必死で、あふれ出てきたものを押さえ込まないといけなくて、どこか人目がないところに行って、必死に感情を抑えるのだ。
たぶん、その1回だけであふれたものではないのだ。自分のなかに溜めてしまったものが、一気にあふれてしまう。それをカウンセラーは「ダム」と表現した。
私は心を「ダム」にしているから、一気にあふれ出てしまう。「ダム」ではなくて、「蛇口」に変えてちょっとずつ出していくことが、私には必要だと助言をいただいた。
だから、今回この傷ついた気持ちを、会社の先輩に愚痴ることを決心した。「みっともない。怒って何になる。文句を言うな。周りの人が嫌な気持ちになる」何度も何度も、頭の中で声が聞こえる。「Stop the Guchi! 」
「マネージャーの伝え方、おかしくないですか⁉︎ 私傷つきましたよ。」先輩の胸を借りて、いざ愚痴る。すると、先輩も「おかしいよね〜」とめずらしく同調してくれた。少し苦手に思っていた先輩だったからこそ、ちょっと救われた気持ちになる。
「相手の立場に立ちましょう」「愚痴を言うのはよくない」当たり前のように教育され、自分ルールとして受け入れていたものに疑問を感じた。なぜ、「自分を大切にしましょう」「気持ちを素直に表現しましょう」と教育してくれなかったのか。どちらが大切かは、一目瞭然のように思う。
だから、私はこれからも、愚痴る。わがままになる。
もっと、カッコ悪い自分を外に出していく。
自分の成長より、等身大の自分を受け入れる方が、私には大切なのだ。
P.S. わかばへ
誕生日プレゼントありがとう!花瓶、私が見過ごしてしまうような品のある品物で、品のない部屋に、品が咲きました。メルシー!
とね
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