想 〜このほしを繋いできた真実〜
「私が死んだら 此のなつかしい手紙もいっしょに 私の体とやいてくれる様に お願いします。」
こんにちは。
この真実に心震える中川吉右衛門です。
僕は、此のほしを繋いできた真実を、ついに発見した。
それはそれは、とても美しいことだった。
今日は、その真実をあなたへ。どうしても伝えたいので書いてみます。
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つい先日のことです。
母が、うちの座敷を模様替えし、自分の友人などを呼んで遊ぶ、遊び場を作るということで、思いっきり手伝わされました。
ソファを運んできたり、大きなタンスを移動したり、押入れの中を整理したり。
こうなると、やっぱり、ゴミを捨てるということは必須で入ってくるわけで。
整理して、要らないものを処分するため、僕はトラックに積み込み。
中川家の人間は、とにかくいきなりスイッチが入る。入ったら、早い。
ガンガン捨てまくる。懐かしいものだろうが、思い出の何かだろうが、半年以上見てない、触れてないものは、即座に捨てるという。
こうした片付けの時によくある、久しぶりに発見しては、それを見て懐かしむ というノスタルジックな時間をできるだけ無くすように、動き回ります。
なので座敷の一部屋ぐらいの整理・片付け・掃除ぐらいはあっという間に終わるわけです。
でもスイッチが入っている我々は、止まること知らず。
まだ、トラックの荷台は空いている。
じゃあ、蔵のものも整理して処分してやろう。ということになったのです。
母は、昔から気になっていた、処分しきれていなかった、ばあちゃんのものを此のタイミングでやっちまおうと。
じゃあ、やるか!と、我々は蔵からどんどんばあちゃんのモノを引っ張り出しては、外に出し、積み込んでいました。
一番多かったのは、着物と洋服。
ばあちゃんの箪笥の中身を全部出して、トラックに積み込んでいる時。
一つの棚の着物の下に、茶封筒があるのをふと発見しました。
先ほども言いましたが、スイッチの入っている僕は、そういうものもあえて眼中に入れずに、処分するものと決めてどんどん捨ててしまうのですが、此の茶封筒だけは、異彩を放っていたんです。
とにかく、強く暖かい芯のある光を放っているように見えたから。
僕は、その封筒がとてつもなく気になって、作業の手を止め、取り出してみました。
すると、その茶封筒の表書きには、なつかしいばあちゃんの字で、
「私が死んだら 此のなつかしい手紙もいっしょに 私の体とやいてくれる様に お願いします。」
と書かれている。
震えました。魂が。
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僕は典型的なばあちゃんっ子だったので、ばあちゃんとの思い出は山ほどあります。
何より貴重で素敵なことは、『女の本質』を言葉だけではなく、彼女の生き方・生き様で見せ続け、伝え続けてくれたことは、後の僕の人生に、強烈に鮮烈に、大きな影響をもたらしました。
ハイカラを突き抜けて、ぶっ飛んだばあちゃんでした。
ぶっ飛んだエピソード、そして痛烈なまでの女の猛々しい業を、実際に目の当たりにし、実際自分もくらってきました。
だからわかる。
此の文章の音階と熱情。
直感で『これはきっと恋文だ。』と理解りました。
心が揺れました。震えました。
すぐに中身をみたい衝動をグッと堪え、一旦その手紙を家の玄関に置き、再び作業を開始する。
運び出している最中に、母がその手紙を見つけ、なんの躊躇いもなく、中身を呼んでいる姿を発見。
その時僕は、何か、とても神聖なものを無下に扱われた様な気持ちになり、
「ああ!!!!!お前ぇえええ!!!!何やってんだよ!!!!!読むんじゃねーよ!!!!!!」
すると母は、
「いいべした〜。もう十分供養もしたし、今更〜笑」
と、言いながら、無造作に中を取り出し、中身を読み出しました。
やはり、母は強い。
というか、なんと言えば伝わるか。
時空を超えられる人と、超えてない人の差を感じ、仕方ないな・・という気持ちだったんです。
なので、そのまま放っておきました。
僕らが積み込みで何往復かしている間も、母はその手紙を読みふけり。読み終わった後、僕に
「ヒロ〜。これすごいね〜〜。クニヒロって書いているから、じいちゃんの手紙だよこれ!達筆だし、あの当時の人にしては、熱烈なラブレターだぁ」
と、話しかけてくる。
僕は、内心
「ちっ!言うなよ。そんなこと。わかってんだよ。わかってんだよみなくてもそんなことはよぉぉおお。ったく、ロマンティックというものがこいつにはねぇのか!?」
と、イラつきながらも、その手紙の相手が、自分の実のじいちゃんであったことを知ったその時。
此のほしを繋いできた信実に触れた気がしたんです。
だから、母には穏やかな笑顔で
「そう。そうか。やっぱりそうか。」
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僕は此の手紙を、数日間神棚に祀り、読まずにいました。
そして、今日。
初めて、その手紙を封筒から開けて読んでみたんです。
なるほど。
僕の直感通り、母の言う通り、これは俺のじいちゃんが、俺のばあちゃんに向けて書いた情熱と愛と願いが一面に込められた、素敵すぎる恋文。
昭和二六年。
70年の時を経ても、今尚、変わらず光り輝き、むしろますます輝きを増し、人の心を揺さぶり、その襞に、その粘膜に、その肌に、耳に、その目に、響き渡らせる此の力。此のパワー。その源泉。
それはつまり、
「ロマンティック」
僕のじいちゃんもばあちゃんも、ぶっ飛んだ人だった。
当時としてはあり得ないほどの大恋愛の末、家柄のせいで猛反対されていた既存概念をぶち破るため、愛の逃避行をし、駆け落ちをし、現実をねじ曲げて結婚した二人だった。
それは二人の愛の力であり、二人の信念の勝利だった。
その二人が交わした対話が、今ここに、僕の手元に形として在る。
それはそれはとてもロマンティックだ。
此のロマンティックな恋文が、今、僕を此の世界に存在させている証明だ。
それは僕だけではないだろう。
君も、あなたも、そう、あなただって、ロマンティックがあなたを今、存在させているんじゃあないか。
姿も形も無い此の真実が、僕は”此のほしをつないできた真実”だと心底思っている。
だからね。
やっぱり、人生はロマンティックであるべきなんだ。
ロマンティックであれば、ざっくりだいたいオッケーなんだよ。
それは何も男女の恋愛だけでは無い。あらゆるものにロマンティックであれば、こんなにも美しいことはないじゃあ無いか。
むしろ、ロマンティックがなければ、一体、何が楽しく、何を美しいと思い、何を見て、何を感じ、何を継承し、何を伝えていくのか?
ロマンティックが無い人生なんて、気の抜けたシャンパンみたいじゃ無いか。
だから僕はロマンティックに生きる。
それが、進化の鍵を握っていると、僕は信じている。
じいちゃん。最高の恋文だったよ。
さすが俺のじいちゃんだな。
春の陽だまりが陽炎の様に立ち込める、気持ち良い野良が現れたら、此の手紙。
ばあちゃんの言う通り、やいてお返しします。
それまでもう少し待っててください。
十四代中川吉右衛門 拝
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