【宮悠介×ハラサオリ】クロストーク「パフォーミングアーツの現在地/セルフドキュメンタリーという手法について」
2025年1月31日(金)~2月2日(日)に上演する、吉祥寺シアター主催のダンスショーケース「吉祥寺ダンスリライトvol.4」。
その参加アーティストである宮悠介と、ドイツと日本を往き来しながら活動するダンスアーティストのハラサオリさんによるクロストークの模様をお届けします。
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――本日はよろしくお願いします。
――まずは自己紹介をお願いします。
宮:宮悠介です。身体表現者・舞台作家という肩書きで活動しています。
ハラ:振付家・ダンサーのハラサオリです。学生の頃はデザインを勉強していて、その後ダンスアーティストとしての活動を始めました。はじめてダンス作品を製作したのは2017年で、振付家としての歴は宮くんと同じくらいかと思います。
宮:ハラさんには以前『架空生物の鳴き真似(Alien Blues)』のレビュー※を寄稿いただいたことがあり、僕もハラさんの作品やアーティストとしてのスタンスにすごく興味があったので、今回お声掛けさせていただきました。
※「ダンコレマガジン」内で公開中。
無名を夢想する 文:ハラサオリ
https://drive.google.com/file/d/172sBr2Vj_S5fpt9hq_XbSTLA1kf9Zx8H/view
宮悠介の作品について
――ハラさんは宮さんの作品についてどのような印象をお持ちですか?
ハラ:自分で作って自分で踊る、いわゆる「自作自演型」のアーティストの中でも特に個人的な題材を扱っていて、観客に伝わらない前提のシーンもあったりと、かなり貫いたスタイルという印象です。モチーフを抽象化しつつ、だけど記号化はしていない。その塩梅が彼の作家性なのかなと思っています。
また、発話も含めダンサーとしての身体的な技術が高く、それでいてコンセプチュアルに作品が構成されている部分にも独自性を感じます。
宮:ありがとうございます。
ハラ:『架空生物の鳴き真似』はどれくらいの期間で製作したんですか?
宮:構想を始めたのが2023年の2月ごろで、その一か月後に一番はじめの試作を発表しました。それから12月のヨコハマダンスコレクション、さらに2024年も自主公演や台湾などで再演の機会があって、上演を重ねながら今もずっと作り続けているような作品です。
ハラ:最初の構想から残っている、核のようなシーンはありますか?
宮:シーンというよりはテキストですね。『架空生物の鳴き真似』はシーンでもムーブメントでもなく、僕自身の体験にまつわるテキストからスタートした作品なんです。それをどう料理するかを考えながら発展させていった形です。
ハラ:そうなんですね。これだけ身体も使える人がテキストから作品を立ち上げるっていうところも面白いですね。
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photo by Maegawa Toshiyuki
ハラサオリさんの作品について
――宮さんはハラさんの作品についてどのような印象をお持ちですか?
宮:身体を対象化してモノのように扱いつつ、だけどそこに生身の身体が介在していることの意味もちゃんとある。そういった身体との距離の取り方がすごく素敵だなと思っています。
モノと身体を扱って作品をつくるということに対して、ハラさんの中でのこだわりはありますか?
ハラ:私は学生の頃からデザインを勉強してきたこともあって、「物語」よりも「配置」や「構成」のアプローチで作品をつくっていて。そもそも物語的な考え方で創作をしたことがなくて、それよりも自分の美学が淀みなく現れるのが「配置」と「構成」なんですね。
だから「ドラマを扱わない」という信条は自分の中にある。例えば『P wave』※は震災をきっかけに作り始めたけど、震災の悲劇的な側面を物語として描くのを徹底的に避けて、「揺れる」「揺らされる」といった運動、現象に置き換えて作りました。
※ワークインプログレスを経て2024年5月にゲーテ・インスティトゥート東京にて上演。
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photo by Yume Takakura
宮:じゃあ、いっそモノさえあれば生身の身体じゃなくてもいいと思うことってありますか?例えばこの(机上の2本のペットボトルを指して)水の配置だけでもいいのかどうか。
ハラ:それはちょっと自分のやりたいこととは違うかも。ドラマという意味ではないけれど、私は人間そのものにはとても興味がある。例えば宮くんと私がなぜこの水をこの配置で置くに至ったのか、そこには何かしらの理由があるはずで。そういった人間らしさや人間の在り方を描くことには必ずリーチしたい。それがそもそもの目的で、「配置」や「構成」はそのための手段として扱ってますね。
だから意外と考えてることはエモくて(笑)、ただ私の美学としてはそれらを記号的に扱いたくて、それは多分ある種のフェチズムなんだと思います。
宮:なるほど…ハラさんの作品はすごくクールでカッコいいなと思うんですが、どこかチャーミングだったり人間らしさがあるのは、そういった背景から来ているんだなと腑に落ちました。
パフォーミングアーツの可能性
宮:ここからは僕のお悩み相談タイムなんですが…僕はデジタルアーツというものに劣等感があるんです。隣の芝は青く見えるというか、安直な考えですがデジタルメディアを使えば人は浮くこともできるし、100回上演することだってできるし。かたやパフォーミングアーツは、たった数回の上演のために生身の身体を酷使する必要があって、それはやっぱり身体も疲れるしコスパも悪いじゃないですか。
ハラ:そうだね。怪我もするし。
宮:結局自分はパフォーミングアーツが好きでそれに従事しているんですけど、そういった不便さに苦しめられているのも事実で。ハラさんはパフォーミングアーツというものに対してどのような思いを持っていますか?
ハラ:私もその効率の悪さや継続の難しさは常々感じてます。その中で自分がなぜそれを選択しているかなんだけど…
デザインを勉強していた時は、「どう継続していくか」に加えて「どうマスに届けるか」という考えも叩き込まれてた。広告って100人いたら100人に伝えないといけないと教わって、予備校時代も毎日絵を描きながら、「これじゃ何を言いたいのか分からない」「意図が全く伝わらない」みたいなことを延々と言われて…そういう前提を教わる環境では、人間の内側に迫るような、内向的な表現をするのはとても難しかった。
かたや今自分がやっていることって100%すべてが伝わる必要はないし、その劇場の中で2、3人に伝わればいいかなと思うこともあるくらい。もちろん1000人のハコで2、3人にしか刺さらないのは流石に良くないんだけど…(笑)。
宮:そこまでいくと自分の構成力を反省するかもしれないです(笑)。
ハラ:でもやっぱり「みてる人はみてる」ということを希望に思うことはあって、それは広告の考えとは逆行するものだと思う。そんな時に「自分のやりたかったことは結局こっちだったんだな」と思うことはあります。
宮:なるほど。
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ハラ:でもやっぱりこういうのって原体験というか、それこそフェチのようなものの影響が大きいと思う。若い時の鑑賞体験で「真っ暗な空間がなんだかドキドキして良かった」みたいな、そういう小さな興奮がずっと残ってたりするから。
まだダンスの勉強を始める前、シルヴィ・ギエムの来日公演を2万円くらい払って観たことがあって。もちろん言うまでもなくギエム自体はとても素晴らしかったんだけど、でも私が強く覚えてるのは彼女に照明が当たった時に、その光の中にデカめの埃が舞ってて…なんかそれがすごく良くて(笑)、その埃のことを今でもずっと覚えてたりする。
宮:確かにパフォーミングアーツの場合、舞台よりも埃を観てる時間があっても許されるというか。
ハラ:そうそう。そういう原体験があって、「これくらいオーディエンスって色んなもの観てるんだな」ってところに面白さを感じてる。もちろん広告ほどじゃないにしても劇場自体に権威的な「見せる力」があったりするけど、でも「勝手に色んなところを観て楽しんでいい」っていう可能性をその時から感じてるんだと思うな。
もちろん自分の中では細部に至るまで精緻に作品を構成するけど、でも「全部は伝わらない」「全部は観られない」という前提は常に持っていて、それはむしろ自分的には希望だと思ってる。
宮:なるほど…ハラさんの中で希望に感じていることが伺えて、ビシバシ勇気をもらっています。
ハラ:埃が気になっちゃうことが希望でいいのかは分からないけど(笑)。
劇場での上演について
宮:例えば僕が度々ご一緒させていただいているスペースノットブランク※は、ポジティブな意味で「舞台芸術の枠を飛び出そう」という気概も見せていて、「そういう活動の仕方もアリなんだ」と希望をもらったりしています。ハラさんはパフォーミングアーツから離れてもっと違う形態を模索したいと思うことはありますか?
※2024年12月に『再生』、2025年1月に「ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー『練習曲』」にそれぞれ出演。
ハラ:私の場合はそもそも劇場からスタートしていないので、あまりそこをホームだとは思っていなくて。たまたま何度か大きなホールで上演する機会はあったけど、まだ数回程度ですね。ここが自分のやりたいことをすべて叶える場所ではないと思っていて、身体自体をメディアとして実感できる表現環境を求めてます。
宮:先日の『ポスト・ゴースト』※は複数の劇場(愛知県芸術劇場 小ホール、KAAT神奈川芸術劇場 ホール)での上演でしたが、やってみていかがでしたか?
※2024年11~12月に愛知県芸術劇場×Dance Base Yokohama「パフォーミングアーツ・セレクション 2024」にて「小暮香帆×ハラサオリ」名義で上演。
ハラ:愛知公演からすぐ一週間後に神奈川公演があって、それぞれサイズの全く違う劇場だから、私たち以上にテクニカルの負担がすごく大きくて。だから逆にアーティスト側はなるだけプランを変えずに上演する必要があって、愛知での実寸をそのままKAATのホールの真ん中にポンと置くような形だったのね。だからKAATの舞台に立った時に「うわ、でっか」ってびっくりした(笑)。
宮:実際に立ってみると身体がびっくりしますよね。
ハラ:そう。私は大ホールに立った経験もそんなにないから、(小暮)香帆さんに「サオリさんちょっと顎上げて~」とかチューニングしてもらって…(笑)そういう意味での大変さはあったかな。
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photo by Yulia Skogoreva
いまアーティストに求められていること
宮:そういった風に外側から要求される作品のフォーマットがある中で、アーティストとして実績を積んでいくにはその要求に上手く応えていく必要があると思うんですけど…その難しさと向き合っていくことに自分は辛さを感じるんですよね。
ハラ:そうですよね。私は最近、現行の助成金制度にマッチした作品やそういうビジョンを持っているシアターメイカーだけが活動を継続できるっていう今の状況に不安を感じていますね。活動継続やキャリアの在り方が画一的というか、「大きなチームを組織できる」、つまり「ディレクターとして求心力がある」こと、言葉を選ばずに言うと「良い人」であることがチャンスを掴むための第一条件になるのではないかという、コミュ障視点の危惧ですね。もちろん人格が優れていること自体は良いことだし、ハラスメントの問題なども当然クリアしなければいけないものだと思う一方で、例えば自身の孤独を守りながら活動を続けていきたい人だったり、偏った作家性を持つ人たちも素晴らしい作品を生み出していて、そういった人たちが零れてしまう今の助成制度には、やっぱり問題があるんじゃないかな。
宮:そうですね。そういった人たちが純粋にアーティストとしての職務に専念できなくなってしまうのは、業界としても損失になるように思います。
ハラ:若いアーティストの選択肢が狭まってしまうことにも繋がるしね。
あと、キャリアを重ねていくと若いダンサーに振付をすることも多くなっていくけれど、そうなると「振付」と「コーチング」の領域がオーバーラップしがちになって、「よき振付家」=「よき指導者」になってしまう。私は今後も振付をやっていきたいと思っているけれど、現場での教育者になる気はないです。
宮:参加している若いダンサーも、振付家にそういった指導者的振る舞いを求めるようになりますしね。
ハラ:そうそう。だからアーティスティックな部分よりも、お稽古文化の師弟関係というか、そういった指導者的立ち回りが求められてしまいかねない。
例えば舞踊家として先生に習ってきた人は「誰々に師事」みたいにプロフィールに書くわけだけど、「私師匠いないから書けないなあ」とか思ってて(笑)。じゃあ私ダンサーって名乗れないのかなって若い頃は思ったりしてた。
日本には芸術系の大学に舞踊科が少ないから、最初はやっぱり誰かに師事してその人の作品に出て、ちょっとずつ独り立ちして作品を発表できるようになる、みたいなルートが多い。ダンサーや限定的な基礎言語を経由せずに振付を実践するアーティストがもっと生まれた方がいいですよ。どちらが優れているとかではなくて、とにかく、色々なモデルがあるってことが大事だと思います。
宮:なるほど。聞いていて思い出した話なんですが、はじめてプロフィールの提出を求められた時、他の人のプロフィールを参考にしながら、「誰々に師事」みたいな書き方がやっぱり安直にカッコいいなと思って…
ハラ:分かる、カッコいいよね(笑)。
宮:僕の筑波大学時代の恩師がバレエ・コンテンポラリーダンサーの平山素子先生なんですが、勝手に「平山素子に師事」って書いたらめっちゃ怒られました(笑)。昔とは時代も変わっていて、今は「師弟関係」という言葉にはマイナスのイメージもあるし、そういう古い考えの若手なんだなと思われちゃうから書かない方がいいよ、と言ってくれて。とても有難かったです。
ハラ:そうなんだ。そこはアップデートされてるんですね。
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セルフドキュメンタリーについて
宮:僕は自分自身の個人的な体験をセルフドキュメンタリーのような形で作品にしているんですが、観ていただいた方からのフィードバックで「宮くんの作品は時代や国境を越えることができない」と言われたことがあるんです。内向的で外に開けていないから、不特定多数の人に作品を届けることができないのではないかと。自分もまだ自身の作家性に悩みながら作品をつくっているので、そういった意見に揺らいでしまう部分があって、未だにそういった葛藤を抱えたまま創作をしています。
ハラさんは『Da Dad Dada』※でセルフドキュメンタリーの手法を用いられていますが、個人的な内容を扱うことについて思うことはありますか?
※2017年にドイツで初演。のちに「Dance New Air」などで日本での上演も行われている。
ハラ:まず『Da Dad Dada』という作品は、ミュージカルダンサーとして活躍していた私の父にまつわる、セルフドキュメンタリー形式の作品です。
私は子どもの頃は父とは一緒に暮らしていなくて、あまり父のことをよく知らないまま育って。それから20代の前半に父と再会して、「これから関係が出来ていくのかな」と思っていた矢先、再会の2週間後に父が事故で亡くなってしまいました。
そういった実際の出来事を扱っている作品ではあるんだけど、ただ自分の話を舞台上でするだけだと作品としては成立しないと思って。そこで、父がダンサーをやっていた時代の日本の社会史と私たちの個人史をパラレルにするという構造を軸にした。父のダンサーとしての最盛期と日本の高度経済成長期が同時に訪れたこと、その後両者とも没落の一途を辿っていったこと、そして私が生まれて、父と私が同じ歳で東京オリンピックを迎えたこと。社会史を描くことで批評性を担保しつつ、個人史の部分では会話の録音だったり、ダンサーとしての父の写真だったりと、個人的なモチーフも用いたりしました。
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photo by Yulia Skogoreva
宮:ハラさんご自身も出演されていたんですよね。
ハラ:そうそう。もともと『Da Dad Dada』はベルリン芸大の修了制作として作りました。そもそも通ってたのが舞踊科のソロパフォーマンス専攻だったから、私も出演する前提で作る必要があって。だから本当はソロじゃなきゃいけなかったんだけど、「舞台装置」という名目で十五人出てもらって(笑)。
宮:十五人出てるけど舞台装置だからソロパフォーマンスです、と(笑)。もしも自分が出演しないとしたら、他の出演者に演じさせたりということも選択肢に上がりますか?
ハラ:それだったらむしろインスタレーションとかにしていたかもしれない。私は「出る自分」と「創る自分」をあまり分けたくなくて、結局は自分でパフォーマンスすることで何かを分かりたいという欲求があるから、出るなら自分が出るし、出ないなら誰も出ないという形を採ると思います。
宮:なるほど…ご自身が出演されることにもそういった必然性があるんですね。
話は変わるんですが、先日拝見した捩子ぴじんさんの『ストリーム』が素晴らしくて。『ストリーム』も同様に個人史と社会史がオーバーラップするような作品でしたが、両者間の置き換え方や距離の取り方もとても良くて。舞台空間への落とし込み方も巧みで、舞台芸術としての必然性を感じてめちゃくちゃ刺さりました。
ハラ:私も全く同意見です。今年観た上演作品の中で一番好きでした。
宮:ああいう素晴らしいパフォーマンスを観ると、大劇場だけがゴールじゃないと思いますよね。小さなサイズ感がすごくフィットしていましたし。
ハラ:あの作品を大劇場で観たいとは思わないもんね。
宮:自分の悩んでいることに対してすごく勇気をもらえた作品でした。
ハラ:今年観た中でもう一つ特に良かったのが、山下残さんの『横浜滞在』。残さんが日記というかエッセイのようなものを、30分間舞台の後ろで一歩も動かずにずっと読んでて。その前方にダンサーがもう一人いて、その内容にあわせたりずらしたりして踊るような作品。この作品も個人の声がパブリックに拡張されて行く様が気持ちよかったです。20年前の作品なんですね。
自分の話だけだとやっぱり誰でもできるから、そこに技術が現れていてほしい。ダンスの身体的な技巧に感動するのと同じような欲求で、私は構造化や展開の技術に感動したいんだと思います。
おわりに
宮:『Da Dad Dada』以降も作品を発表されてきて、個人的な内容を扱うことへの興味や向き合い方について、ハラさんの中で変わってきた部分はありますか?
ハラ:多分セルフドキュメンタリー自体は自分の主題ではないというか、それ自体が目的というわけではないんだよね。『Da Dad Dada』はどうしても描きたい題材が先にあって、その表現方法としてセルフドキュメンタリーの手法を採ったということに過ぎないから。
ただ、現実に存在するものをどうやって舞台で扱うか、ということについてはずっと変わらず興味を持っています。舞台ってやっぱり、何をやっても嘘になっちゃうじゃないですか。例えば私が舞台の上で「ハラサオリです」って言ったとしてもそれは嘘になっちゃうというか、本当はハラサオリじゃなくてもそう言えちゃうわけで。そういう嘘前提のメディアの中で「本当のこと」が現れた時、すごく心が動かされる。そんな体験を自分でも目指しています。3月に上演した『鉄球』では、観客にとってもダンサーにとっても絶対的な現実である「重力」をモチーフとして扱ったんだけど、モノが落下するスピードや落下したときの音は嘘じゃない「本当のこと」だと思うから、やっぱり面白くて。
だから主題としては、ドキュメンタリーかどうかよりも「嘘と本当の掛け合い」そのものに重きを置いているんだな、というのが最近の気付きですね。
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photo by Jumpei Iwamoto
宮:すごく分かります。僕自身、ダンスのステップよりも肉体の物理的な重さのような、「身体的な現実」を活かしたムーブメントに凄く惹かれるんです。例えば発する声が身体の動きにあわせて自然と変わっていったりとか…そういったものに対する興味を言語化いただいたようで、自分の表現したいこと、追及したいことが明確になりました。
(聞き手:小西力矢)
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宮悠介
1998年生まれ。身体表現者。筑波大学、大学院修了。ダンサーとして鈴木ユキオ「堆積-Accumulations-」シビウ国際演劇祭等、国内を代表する振付家の作品に参加。振付家として自己の実体験を基に自作自演で踊る作品を創作。ヨコハマダンスダンスコレクション2022 コンペⅡ 最優秀新人賞受賞。SAI DANCE FESTIVAL 2023 ソロ部門 first prize受賞。第13回エルスール財団新人賞受賞。地元新潟で地域おこしを行う弟とAIR運営中。
ハラサオリ
1988年東京生まれ。美術家、振付家、ダンサー。「環境と身体」をテーマに、自らの身体、光、音、テキスト、ドローイングなど多様なメディアを用いた上演型作品を制作する。現実と虚構が織り混ざる「上演」という表現形式を現代の身体で捉え直すと共に、自己や他者への振付行為について思索している。約10年に渡るベルリン滞在を経て、2023年より東京、横浜、神戸、京都など国内各都市で活動。
東京藝術大学デザイン科修士、ベルリン芸術大学舞踊科ソロパフォーマンス専攻修了。第9回エルスール財団新人賞コンテンポラリーダンス部門受賞。2020年よりDance Base Yokohamaレジデンスアーティスト。2021年より武蔵野美術大学映像学科非常勤講師。
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吉祥寺ダンスリライトvol.4
次なる時代を“リライト”する
ダンス新世代、到来
2025年1月31日(金)~2月2日(日)
吉祥寺シアター
1月31日(金) 19:00 A
2月1日(土) 14:00 A/19:00 B
2月2日(日) 14:00 B
A:浅川奏瑛 BALA Baobab
B:egglife 宮悠介 Von・noズ+公募ダンサー
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