青森りんご教団入信事件
「南無阿弥陀…」
かれこれもう15分くらい念仏を唱えている。
青森まで来て、いったい何をしているのだろう。
突如、青森に行きたいと思い立ち、夜行バスの比較サイトを開いた。
深夜0時前。新宿のバスタから青森行きの夜行バスに乗りこんだ。翌朝の8時には、JR青森駅に着いた。
駅の近くにあったファミレスで朝食を摂り、軽く旅行の日程を立てた。
時間があったので、シードルの醸造工程が見れる「A-FACTORY」という商業施設へと行ってみることにした。
陸奥湾を見渡せる港にそびえ立たったA-FACTORYは、近代的で洗練されていた。
シードルって美味しいんかな、名前はカッコいいよなと、A-FACTORYが目の前に見える広場で、人生で初のシードルに想いを馳せていた。
すると、向かいから作業着をきた男性が、ぼくを見つけるなり声をかけてきた。
「たぶの人?」
歳は30代後半くらいで、甘いマスクの中にどこか渋みのあるダンディーなお兄さんが何か言っている。
しかし、なんて言っているのかが全く分からない。
「たぶの人?」
たぶん、3回ほど聞き直した。
「旅の人?」
ようやく、理解できた。
ダンディーなお兄さんは脇をみると、たしかに観光パンフレットが抱えられていた。
そのパンフレットおもむろにを広げて、「五所川原のねぶた」が凄いから、車で案内してあげるとおっしゃるのだ。
作業着で、青森県のパンフレットを持っていて、観光スポットで声をかけてきた。しかも、案内までしてくれると言う。
この人は市か町の観光課の人か、と一人で納得した。
幸先がいい。時間は持て余していたし、なにより旅っぽいし、ねぶたも見たかった。
ダンディズムおにいは、これまでに50、60人は案内してると言うのだ。
これは安心だ。ぼくの知ってる青森出身の人たちもみんな良い人だし、大丈夫だろう。信じてついて行くことにした。
駐車場まで歩きながら話をしていると、ダンディズムおにいはリフォーム会社の人ということが判明した。
ん? 観光案内をするという行動と、部屋の壁紙を張り替える職業が、全く結びつかない。冷や汗が背筋を流れた。
動揺で心臓の鼓動が高まる中、車に乗り込み、おそるおそる聞いてみた。
「なんでこんな活動しているんですか?」
すると、1枚のチラシを見せてくれた。
○×○×教団
りんごが落下するのをみて、万有引力の法則を閃いたニュートンよろしくすべてが繋がった。
そして、ちょっとだけ体験していこうよと言うのだ。
すで車に乗せられてしまっているし、すでに辺りには田んぼしか見当たらない。こんな津軽平野のど真ん中で降ろされても困る。
もう、退路はどこにも存在しなかった。
会社に電話するねと、ダンディズムおにいが一言。
「一名、入信いきます」
えっ? 体験じゃないの? いつのまに入信? 急にとてつもなく怖くなってきた。
そもそも、なにを拝むのかも知らない。りんごの神様? ……。それなら可愛いから、ちょっと信仰してもいい気がする。
りんご教なら、やはり山奥に連れて行かれるのだろうか。
いやいや、待て待て。なんにしても、おっかなすぎる。
しかし、ダンディズムおにいは、どう見ても悪人には見えない。
「ある人は信仰してから、腰痛が治ったんだ」だとか、「ぼくも信仰してから、調子がいいだ」と、お母さんにリザードンがどれだけ強いか熱弁する子どもにしか見えない。
「宗教」という言葉を聞いただけで、人の善意を無駄してもいいのだろうか。
ぼくは、ダンディズムおにいという「人」を見ることに努めた。
りんご神を拝むことができるという彼の会社へと向かった。
住宅街へと入っていき、数分車を走らせると、会社に着いた。たしかにリフォーム会社のようだ。山奥じゃなくて、ほんとうに良かった。
資材を保管するコンテナの横に小さなプレハブの小屋があり、そこへと案内された。
扉を開けると、四畳くらいの広さのフローリングで、奥には仏壇があった。
部屋の一面だけ黒いレースのカーテンで仕切られており、そこにはダイニングテーブルとイスが四脚置いてある。
カーテンの向こう側に目を凝らすと、髪の長い年配の女性がこっちを見ていた。思わず肌が粟立った。
もう生きて帰れないかもしれない。
ただ、シードルが飲みたかっただけなのに。
すると、その黒いレースのカーテンから、りんごのようなテカテカのあたまの社長さんが出てきた。
ジョナゴールドが歩いている! と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
りんご社長も悪人には見えない。なんならめちゃめちゃ良い人だとすら思う。
ところが、世間話が終わると、ぼくの気持ちなんて置き去りにして、儀式は始まった。
「南無阿弥陀…」
かれこれ15分くらい念仏を唱えている。
ぼくは青森まで来て、いったい何をしているのだろう。
結局、なにごともなかった。
約束通り、五所川原のねぶたの施設に連れて行ってくれた。入場料まで出してくれ、見学も最後まで付き合ってくれた。
さらに青森までまた1時間かけて送ってくれると言う。
さすがにダンディズムおにいに悪いのと、まだ少し怖かったので、電車で青森駅まで帰った。
りんご教団から生還して青森駅で飲んだシードルは、すこし渋かった。