「優しい」のレッテル

自分がどんな人間かなんて、ほとんど他人に委ねている。
自然に振る舞ってはいるが、どこかで、相手に合わせている部分がある。
だから大抵の場合、私は「優しい人」になる。

目の前のあなたには、どうか楽しく幸せでいてほしいからね。
ありったけの優しさを注ぐ。それはもう過剰なほど。

しかし、その「優しい」に意図があるしたら。
急に打算的で嫌な奴に思えてこないだろうか。ていうか、打算的ってマイナスイメージなのが、そもそも解せないな。

無意識な優しさはきっとあり得なくて、私はいつだって、自分のために他人に優しくしている。良いも悪いも、そのうち自分に返ってくるものだから。

人はもっと打算的に生きていいと思うんだが、どうにもそれを良しとされないことが多い。なんで自分で自分の首を絞めるようなことをするんだろうな。自分にできることを確実に把握して実行できていれば、それでいい世界にはならないのだろうか。

こういうことを考えていると、自分以外の人間も全員自分だったらいいのに。と空想に走ってしまう。面倒だと思うこと、得意だと思うこと、そのあたりも全て同じになるけど、私には平等性を重視しているところがあるので、きっと上手いこと回していけると思う。それができたら、どれほど楽に生きられるだろう。

「優しい人」になるのは、結構簡単で。
相手にとっての「優しい人」になるためには「都合のいい人」になればいい。否定をしない、提案を呑む、肯定する、楽しそうにする、共感する、相手の好きな事柄を自分の案のように提案する…とにかく、相手ファーストにすると、その人にとって貴方は「優しい人」になれる。絶対に。

なぜ「優しい人」になろうとするか。なんて、そんなの、良い人だと思われたいから。以上の理由があるだろうか。自他ともに認める、他人に優しい人でいたい。そう見られることで、世間的に疎まれる率が格段に下がる。

「優しい」というレッテルは非常に便利。

ゲームみたいに自分のレッテルをピャキピャキ貼り替えできたらいいのにね。装備品一掃したい、買い換えたい、鍛えたい。合成もできればいいのに。
と、まるで空論のように浮かべているけど、実際、一掃することも、買い換えることも、鍛えることも、合成もできる。リアルでも。案外やりようのある世界だった。

この人には「優しい人」と思われる必要がない。と判断することも多々。ここが一番打算的と言われる箇所だと思う。人を見て判断するんだから、これを打算と呼ばずになんと呼ぼう。
しかしまぁ、「優しくない人」と思われるのもなんだか癪なので。当たり障りのない人、害のない人。という方向にもっていきたい。
そこが意外と手間。

面白いのは、その手間を惜しんでいると、私を「優しい人」としている人からの口コミで、そう思われる必要のない人にも「優しい人」と思われること。
他人の印象は、他人の口コミが入口であることが多いんだと気付かされる。

「優しい」というレッテルは、自由を奪うのか…?
さすがはレッテル。印象操作をも容易にしてしまう。

…なんということか。
“自他共に認める、他人に優しい人”が叶っているじゃないか。あぁ驚いた。

誰にでも優しくするのは難しいが、誰からも優しい人と思われるのは、やっぱり簡単だ。

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