無と有の界面
私の中には要素を有しない空集合∅もあるけど(チェシャー猫みたいだ)、「無」は私の外にしかない。
「無」と「有」の界面が自我の実体だと考えるのならば、自我のなかに「無」を取り込むということは、どう考えても有り得ない。
ゆえに、禅宗の修行などで言う「心を無にする」とは、言葉の遊びでしかなく、無意味な努力だと思うけれど、さてどうなんだろうか。
「成仏」とは個または色が全または空に成ることではなく、個は全に浮かぶ泡だと気付くことであり、「色即是空、空即是色」とは個と全の境界は可変であると気付くことだと思ったけれど、これもどうなんだろう。
「無」も「全」も「有」または「個」と対比されるものだという点では同様だが、「有」の外側が「無」であると考えるのに対して、「個」に対する「全」は、「個」をその中に含むものだと考える。
『中論』の「八不」では、どうもこのへんを一緒くたにしているような気がするけれど、どうなんだろう。
非ユークリッド幾何学の「任意の座標系を設定し、それらの相互の関係を考える」というような発想は、『中論』からは出てきそうにもないな。
座標系などというものはそもそも無いのだ、とか言い張るのであれば。
(2025.1.25)