見出し画像

The Cadet Revolution

1830年のポーランドでの11月蜂起は英語で「The Cadet Revolution」と呼ばれているそうだけど、この語から検索を掛けると、正にこの事件を指す記事しか出てこない。当時の西欧社会ではそれだけこの事件に対する注目度が高かったということなのか。

各国の政府にはそれぞれの思惑があって、ポーランドの蜂起を積極的に支援したわけではなかったようだけど。いや、積極的に支援どころか、無視したり妨害をしたりしていたみたいだ。君主制や旧体制の破壊を招くものだとして。

そういえば安孫子良和氏が彼の作品中で、ジオン共和国建国の端緒は士官学校学生の反乱事件だったという設定を与えたのは、この「The Cadet Revolution」のことが彼の念頭にあったからなのだろうか。

あ、Fryderyk Franciszek ChopinのEtude Op.10,No.12は、この11月蜂起を受けて作曲されたものなんだ。同じ1830年だし、フランス革命(七月革命)への共感に拠るものなのかと思っていた。

日本語Wikiでは「ロシア軍の悪名を高くしたのはリトアニアのオシュミャナ(アシミャヌィ)という小都市での住民に対する虐殺だった。」という一文がある。この詳細を知りたいと思い、リトアニア語版のWikiを引いてみたけど、11月蜂起に関する記事にはこの件に関する記載が1行しかない。

英語版Wikiからリンクを辿ってみたら、Ashmiany/Ašmena/Ашмя́ныは現ベラルーシ領の町だった。リトアニアの政庁所在地ヴィリニュスからの距離は約50km。
この町に入ったロシア軍は1830年に500人、1831年には150人の民間人を殺戮したという。どちらの場合でも災厄に遭ったのはカトリックの教会に避難した者たちだったというが、法王庁は本件を知ってか知らでか、11月蜂起の発生は秩序を乱し無政府状態へと到るものだ、と非難していたようだ。

以前はこうした歴史を見ても何の感慨も湧かなかったと思うが、今現在ヨーロッパで起きていることを踏まえて見ると、様々身に迫るものがある。

いいなと思ったら応援しよう!