自然と超自然

私は,私たちが認識する「自然」にはいくつもの階層(レイヤー)があると思っている。

第1階層は,私たちの感覚器が信号として受信できる範囲にある。
可聴周波数域とか色覚とかには個々の人による違いはあるが,だいたい同じ人類であろうという前提で,視覚や聴覚,嗅覚のように,感覚器が受けとる信号が閾値を超えたときに身体が感じる水準。

第2階層は,感覚器が受信した信号を主体として意識し,記憶し,身体がそれに応じて反応できる範囲にある。
感覚器は受信しているのに,何か別のことに注意を集中しているために意識に残らない,ということもあるし,意識の水準が低下しているためにただ信号を受信しているだけ,という場合もある。そういう水準。

第3階層は,主に大脳の働きにより,記憶されて統合された感覚が構造として定着したもの。この水準になると,感覚の構造を言語によって固定するため,言語自体の構造や定義に大きく左右されるという側面がある。
そして,自らが言語化した感覚の構造に止まらず,他人から受けとった言語(や記号)により,自分が受信していない信号も構造のなかに組み込み,そこにあるものとして認識するに到る。
放射線や可聴域外の音,赤外線や紫外線,電波や磁場も自分の感覚器では感じ取ることができないが,知識として組み込まれていれば,そこにあるものと想定して自分の行動に反映することができる。

ならば,自分の感覚器が受信できる第1階層の範囲外に,人間には直接感知できない基礎的な物理世界があるといえるのではないか?分子や電子の存在も私たちの五感では把握できないけど,そこにあると仮定するよう努めてきたのではないか?

これが,第0階層と言うべき不可知の自然であり,私が主張する「超自然」の定義。
ここで定義された「超自然」とはESPや霊の存在等々を指すのではなく,物理的な自然であってなおかつ私たちが感知できない部分である,ということになる。

とはいえ,私たちの大脳が構造化して仮定できるのは,物理世界のほかにも仮想的な,物理に依らない認識世界も範疇に入るので,それが超自然と呼ばれることがある。私は,物理世界を除外して構築された世界に自然の名を冠して呼ぶのは(混乱を招くので)反対だし,それらの区別を混同した見方については「オカルト」の名を与え,自分自身から厳しく排除したい,というのが私の立場だ。

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