「理」に収める
「怒りで我を忘れる」というのは確かにあると思うけど、このときの「我」とは、「理」で構成された自分ということだな。
ならば、怒る自分は自分ではない(自分以外のものに支配されている?)といえば、そうではないだろう。
怒りも自分の内に在るものだとすれば、自分の構成要素には「理」以外のものも含まれるという見方に帰着する。
でもそれは、今の人には受け入れ難い考え方かもしれない。
だから、社会生物学の言うとおり、子殺しの行為というのは遺伝子の増殖という観点からいえば合理性があるのだと、「理」に収めて考えようとするのだな。
今の私たちが従う法理では、子殺しは認められない。
それゆえ、遺伝子(生物世界)の理は法理とは異なり、相反することもあるのだろう。
(2024.4.19)