ニワカ言語学徒

M.エンデの「はてしない物語」に出てくる「望みを統べたもう金の瞳の君」。

「~たもう」は「給う」または「賜う」だけど、この読みは本来「たまう」だったのではと思った。

調べてみたら、金田一春彦の「国語大事典」にはこういう記載がある。
曰く、『連体形・終止形の「たまう」は、音読する際には「たもう」と発音されることも多い。』と。

これは、「まう」äɯより「もう」oɯのほうが、口の開け方を変えずに済むからなのか。
「もう」では、2母音が二重母音au̯、または長母音oːになってるような気もする。(ニワカ言語学徒w)

音韻論phonologyは音声学phoneticsとは別分野であり、音韻学とは「中国語の歴史的な音韻変化を研究する学問分野」yīnyùnxuéであるという。
ひぇ~;区別してなかった;

インドでは古くから、音韻論および音声学にあたるシクシャーशिक्षाが発達しており、これは中国の音韻学、そして19世紀からの西欧の音声学にも大きな影響を与えたという。
これは、日本の「声明」や「悉曇学」にも繋がっていると。

‥‥無理やり言語学の扉をこじ開けたので少し混乱している。 カフェオレ飲んで休憩!;

明治の昔にチベットへ入った河口慧海師が、現地の言語についていろいろ考察していたというのも、当時の僧侶たちは悉曇学の知識を学んでいたからなのだなー。

一方、19世紀末にチベット(の入り口)を旅したイザベラ・バ-ドは、人びとの社会や風習、植物や地形などの地理には鋭い観察の目を向けていたけれど、言語について特別な関心があったようには見えない。

私が学生の頃に手当たり次第読み漁っていたいろんな分野の知識が、今ここになってどんどん繋がってきているような気がする。

無力感と焦燥感に押し拉がれていた青春の足掻きが無駄ではなかったかもと思うと、感慨深い。

学費を出してくれた親に感謝♪
(2024.7.9)

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