80年代、中国の農民の子として生まれた母の人生

母の幼少期

私の母は現在44歳。1980年に上海市の崇明島(すうめいとう、チョンミンとう)に生まれた。崇明島は長江の河口に位置する島だ。

上海とは行っても母が暮らしていた場所は農村部で、母の家族は農民の暮らしをしていた。それはそれは非常に貧しかったようで、インスタントラーメンが母にとってはご馳走だったらしい。家は一階建ての平屋で床は土で、壁にはナメクジ、天井にはネズミがよく見えたという。

母によると当時の中国では、農民と都市の市民という二つの階級があったらしい。母の家族は農民であり、母の父(私の祖父)が都市部の公衆便所を使おうとすると「百姓が何の用だ!」と罵倒され、追い返されたことがあったという。当時私より若かった母はそれを見て何を思ったんだろう。

母は高校受験の際にテストで非常に良い点数を獲得したにも関わらず、農民であるということで良い高校には行けなかったそうだ。母が進学したのは、裁縫を学ぶための高校だ。共産主義を標榜して置きながら、農民を差別し冷遇するとは、中国はなんと皮肉な国だ。と私はこの話を聞いて思った。

日本へ

結局、母は学校で学んだ裁縫の能力を活かして、日本に行くことができた。この時19歳。今の私と同じ年齢だ。ただ、日本に来たからといって、直ちにハッピーエンドを迎えたというわけでも無い。

日本での労働環境は非常に劣悪だったという。少なくとも当時の日本でも違法な環境だっただろう。中国でも底辺として差別され、日本でも奴隷の如く扱われるなんて、あまりに惨めで見るに忍びない。

ただ、その生活を数年耐えて得たお金で故郷に立派な家を建てることができたという。そして私の父親である日本人と結婚し、日本人らしい豊かな生活を送ることができるようになった。

父によると母親はとても可愛らしく、コンビニでアイスを買って上げただけで、非常に喜んだので一緒にいて楽しかったという。

"サイゼリヤデートに喜ぶ女子"という存在がモテない男の妄想上の存在であると揶揄される現在を鑑みるに、コンビニでアイスを買って上げるだけで喜ぶ20代前半の女性が可愛く無いわけがない。父のその感想に偽りがないことは確かだろう。

今は見る影もないが当時の父の見た目は悪くなく、私が小さい頃「ママはパパの他の女をやっつけて勝ったんだよ。」と自慢げに語っていたのを覚えている。

母と父の恋愛の話はどうでも良いので、中国の生活水準に関する話題に戻そうと思う。

子供の私が見た中国

それから私は生まれ、4歳になった私は小学校に入学する前の1年半の間、母と共に中国に住むことになった。この時2010年前後、母が生まれてから30年が経とうとしている。
ここから、話の視点は私に変わる。私が1年ほど住むことになったのは上述した母の故郷である。しかし母が暮らしていたあの家、つまり土の床にナメクジが這う壁の建物はバイクの車庫に変わっており、母の両親(私の祖父母)は、その家の隣にある大きな家に住んでいた。(母が送金した金で建ったもの)
その家には大きな庭に、1階と2階にトイレとシャワー付きの浴室が二つ。寝室は全部で6つだ。母の両親は定年を迎えて、働くこともなく年金暮らしで、毎日テレビを見たり近所の人と会話したりする生活を送っていた。そしてたまに村の人間が集まり大量の料理を食べる宴会が開かれた。(私もそれに参加し、饅頭に、牛肉に、卵に、美味しいものを吐くまで食べたのが懐かしい。)

これは2010年前後の話だ。母が生まれてから30年、同じ場所にも関わらずこんなに生活は変わっていたのだ。もちろん年金を貰えるようになったということから、母の両親のライフステージが変化したのだろうが、そこに一切の貧しさは見えなかった。

そして母の姉は実家を出て崇明島の都市部に住んでいた。共産党員になっており、投資用の不動産を所有、息子を大学院に進学させた。かつて母の家族が農民として蔑まれていたことを考えると、大した立身出世だ。

まとめ

中国は物凄いスピードで発展しており、上述したように人の暮らしぶりもかなり変わっている。しかし今回書いたのはあくまで母の家族に焦点を当てた話であり、一般化はできない。未だに貧しい生活を送っている人々も存在するだろう。(母の故郷である崇明島は、腐っても上海の一部。内陸にあるような本当の田舎の実態を私も母も知らない。)

また、母の話も全て正確であるとは限らず、私も100%信じていない。

現在、母は中国に対してよく思っていない。私は中国の歴史や文化が好きで、発展する中国を賞賛する発言を良くする。しかし母はそれを聞いて良い反応をしない。貧しい生活を強いたあの国、農民である自分を差別したあの国を今になっても許せないのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?