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偏見を偏見と気付いたときに

最近ひしひしと感じていることなんだけれども、社会人になる前の、というか、うつになる前の自分は、かなり偏見にあふれた人間だった。

生まれ(性格の形成時期のことを”生まれ”と呼んでしまうので、ここではそうする)がオタクなのもある。わたしが小・中学生のころは、まだオタクに厳しかった時代……のように思う。単純に陰キャでコミュニケーション能力もなかったし、というか、元を辿ればかなりノンデリだった時期もある。オタクに厳しかったのではなく、わたしに原因があった可能性も考えられるところが最悪すぎる。思い出しただけで胃が痛くなってきた。

では、現在はどうかというと。
まずはうつになった自分を受け入れることができた、というのが非常に強い。過去あのころの自分だったら、このことに対しての傷も癒えぬうちに笑い話にして、結局自傷して終わっただろう。今でこそ笑い話にしているが、何が良くて何が問題だったか、という分析があってこその笑い話だ。単純に笑い話にするだけにならなかったことが、良い点といえる。

うつに偏見があったわけではなく、うつになるような人間ではない、という、自分への偏見だった。世間への偏見というよりも、自分への偏見がすごかったのだと、このときに学んだ。

このとき、単純に驚いた。20と数年生きてきて、やっと、自分の中の尺度が、自分に合っていないことに気付いた。その事実にびっくりしたのだ。今までの集団生活やら、友人関係やら、思考やら感情やら、「あの時は若かったね〜」の時期が長すぎる。恐ろしい。

今更ながら、あの時取りこぼしたものを必死に拾い集めるような感覚で、情報の収集・勉強のやりなおし・自己分析と感情の整理、などなど取り組んでいる。当たり前なんだけれど、学んでいる途中でまた新たな学びが出る。この当たり前の気づきを得るのに、こんなにかかった。
しかも、この<学びのブースト>はここ2、3年の話だ。スロースターターにも程がある。レジギガスでももっと速い。(この例えが大好きなので頻出してしまう。ポケモンに出てくるレジギガスというヤツがいて、そいつが「スロースターター」という特性を持っているのだ)

閑話休題。
それでも、あのころの青さがあったからこそ、今のわたしがいることは確かな事実であることに間違いない。むしろ、あのころのわたしがいたことで、今のブーストがかかっているということもある。

そして、自分への偏見は同時に、他人への偏見であることにも気が付いた。
自分への尺度を決める時、平常どうしているかというと、世の中はこうだからとか、他の人はこうだからとか、他人のものさし=自分のものさしにしていた。なぜなら、楽だから。このひとことに尽きる。

他人はこうだろう、ああだろう、という断定は、自分のものさしで他人を計っている。それは偏見といえるのではないだろうか?

▲「偏見」のスクリーンショット。コトバンクより引用。https://kotobank.jp/word/%E5%81%8F%E8%A6%8B-131146

過程は後悔の残るものだったかもしれないが、見るべきはこの先で、”今”だと感じている。
「今が一番若い」という言葉、歳を経るにつれて重みが増しすぎじゃないか?やめてください……。

なんにせよ、今、こうしてうまく舵を取ることができているのは、間違いないと感じている。
未来のわたしがこれを読んだときに頭を抱えるかもしれないけれど、このときはこういう感情だったという記録なのだから、いいのだ。

言いようのない虚構に苛まれるときもあるけれど、わたしには言葉がついている。サイコーだね。

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