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日曜日の哲学

干したての布団は、なかなかどうしてこうも魅力的なのだろう。

「あ〜〜。最高」

両手を広げてうつ伏せに倒れこむと、太陽の温かな熱が肌へじんわりと伝わってきて、心地いい。

(やばい。寝そうだ)

昼食後の満たされたお腹。遠くに聞こえる誰かの話し声。頰を撫でていく窓から流れ込む風。穏やかな午後。言わずもがな、午睡には最適の環境だ。

(・・・いや、駄目だ。寝れない。新しいUSBを買いに行かないといけないし、大野さんのメールの返信と・・・ああ、あのプロジェクトの事も考えなきゃな)

ところが、ここが僕の悪い癖である。今日は日曜日。安息の日だ。きちんと休めばいいのに、こうやって意識に隙間ができるとするりと仕事に思考を攫われてしまう。けれど一方で仕方がないとも思う。人生は地続きだ。一週間ごとに全てがリセットされるようにはつくられていない。先週から持ち越しのタスクが突如ゼロになることもなく、3週間先に発表予定の新製品のことをすっかり忘れてしまうわけにもいかないのだ。

(23時には寝たい。と考えると、17時までには買い物を終わらせて、19時には夕飯を食べてその後さっと風呂に...あれ、今何時だ?)

布団から上半身だけ持ち上げて、近くの机に無造作に置かれていた腕時計を掴む。

「・・・?」

見慣れない文字盤だ。自分の物ではない。家族の誰かが置いていったのだろうか。指針の代わりに、黒い円盤が中央で回転している。

(なんだこれ)

まるで催眠術にでもかかったかのように、盤上に目が釘付けになる。どうやら一秒毎に円盤の生み出す形が変化する仕組みらしい。時刻を確認しようとしていたはずなのに、気がつけば時間を忘れて、随分と長い間それを見つめていた。

(「目に見える時間の流れ」なんて、よく思いつく人がいるなぁ)

正確な時刻の便利さを求めても、時の流れそのものの美しさを気に留める人は少ない。僕だってそうだ。仰向けになって片手を頭上に突き出す。クリーム色の天井を背景に、手に持ったままの腕時計の円盤は回り続けている。
本来、目に見えないものはとても曖昧だ。曖昧であることは不便だし不安で、だからこそ人は時間も、週末の予定も、好きな恋人のタイプも、何もかもきっちり定めてしまうことで安心したいのだ。そして、そういうヒト特有の願望に真っ向から疑問を投げかけてくるこの不思議な腕時計との邂逅は、まさに青天の霹靂であった。

果たして時間は、ただの数字だろうか。あてがわれた数字ごとに束ねられた、ただの指標なのだろうか。
ぼんやりとその答えを探しながら、僕はそっと腕を下ろした。


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