薄暮(はくぼ)
平凡であることの幸いを、わたしはずっと覚えていたい。いつのことだか、どうして写真を撮るのかと尋ねた僕に、彼女は短くそう言った。
「寒いね」
「うん」
年明けから、はや三週間。クリスマスを皮切りとするどこか浮ついた忙しないシーズンがついに終幕し、人も街も名残惜し気に日常に飲み込まれきった頃。深まる冬は、ますますその冷たさを増していた。
吐いた息が白く濁るほどの外気に身を縮こませながら、隣を歩く彼女に目を向ければ冷気に晒された耳が赤く霜焼けになっている。
「ちょっと、そのまま横向いてて」
別にそんなことはないのだけろうれど、一度気がついてしまうと、何となく時が経つごとにその赤さが薄れていってしまうように感じて、急いで背負ったリュックのフラップを開けてカメラを取り出す。内部に取り付けられた円筒ポケットに入れっぱなしのままの単焦点レンズを引っ張り出すと、ろくに設定もせずにシャッターを切った。
「うわ、白飛びしてる。・・・ISOは問題ないし。なんだ、露出が変なのかな?」
用語だけはうっすらと把握しているものの、正直なところ、特段カメラや写真に詳しいわけではなかった。趣味と呼ぶには不規則に、趣味じゃないと言い切れないほどには継続している、そんな程度の素人芸。それでも常に万全のサポートを享受できるからという至極シンプルな理由で、大概はある程度満足のいく作品が撮れてしまう。
「うん、多分ね。これじゃ明るすぎ」
彼女と彼女の撮る写真に惹かれて、生まれてはじめてカメラに興味をもったのが去年の冬の終わり。その時に彼女が被写体にしていたのは、たしか作者不明の曇ったガラス窓の落書きだった。僕の記憶にある限り、これまで見てきた彼女の作品のどれもこれもが何の変哲もない日々の断片を切り取ったもので、例えばそれは、壁に落ちた電線の影や白く泡立つ汀(みぎわ)、電車の窓から見えるテールランプの行列に道端に放置された錆びた自転車、あるいはアスファルトにチョークで描かれた「けんぱ」の跡など、そういう、誰でも思いつくけれど誰も気に留めない日常の一端であった。
今も、ファインダー越しに彼女は空を見ている。
春に向かって日は段々と伸びているが、それでも十六時半も過ぎれば空気感はすでに夜のそれだ。薄桃色の空の裾から視線を上げていくと、薄紫から黄色、黄色からみずいろへと、徐々に階調を重ねて藍色の度合いが強まっていくのが見てとれる。隣に並べればまったく異なる色合いなのに、美しいと感じるほどに上手く融和しているものだから光の波長は芸術的だ。
「これは、今日イチ。見る?」
差し出されたカメラを受け取って、かじかんだ指先で再生ボタンを押すと、今しがた撮られた写真が一秒と待たずに表示される。その出来栄えに感心して、素直に称賛の声が漏れた。
「相変わらず、上手いなぁ」
四角い小さな液晶画面の中で、順々に色を移ろわせていく空を、夜の濃紺を背負った雲が棚引いている。
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