『平治物語』における義経と鞍馬寺
近世以前の日本には、「剣術流派の開祖が天狗から兵法(剣術)を習った」という伝承が複数ありました。しかし、そうした伝承は江戸時代の知識人によって嫌悪され、それらの伝承が捏造であることを証明しようとする言説がしばしばありました。そうした江戸時代知識人の意見が本当に妥当なものなのかを確かめるために、義経の天狗伝説を中心に取り上げ、天狗伝説の生成と拡大の過程を検討したいと思います。
義経にまつわる伝説が広まった経緯については、古典文学研究の世界で成果が積み重ねられています。そこで、それらの成果を利用しつつ、古典文学において義経がどのように描かれてきたのかを検討し、それらが義経の天狗伝および剣術流派の開祖伝説にどのように影響を与えたのかを考えてみたいと思います。前回は源平の合戦を題材とする軍記物の代表である『平家物語』を取り上げました。
今回は、平治元年に起きた平治の乱を題材にした軍記物語である『平治物語』を取り上げます。
『平治物語』は、当時権勢を誇った信西、及び信西と深く結びついていた平氏の打倒を目指して、藤原信頼と源義朝が挙兵するところから、平清盛が反撃し、義朝が暗殺されるまでを物語の中核とします。上巻では源義朝の挙兵とそれに対する平清盛の対応、中巻では待賢門そして六波羅を主戦場とする両派の軍事衝突、下巻では義朝の死や悪源太義平・頼朝らの動向、義経の母常葉の運命などが描かれています。義経については下巻で言及されています。
『平治物語』は鎌倉時代に成立したと考えられており、中世を通じて多くの諸本が作られました。『平治物語』は誕生後も後人の手により改作され続け、諸本によって内容にかなり異同があります。大きな改作は二段階あったと考えられています。
第一の大きな改作は、原『平治物語』から「古態本」への改作です。永積安明氏は『平治物語』諸本をいくつかに分類しました。この内、第一類と呼ばれる諸本は『平治物語』の古い形態を比較的留めていると考えられており、「古態本」と呼称されています。残念ながら、「古態本」の全巻揃いの完本は発見されていません。陽明文庫蔵本三巻三冊中の上・中巻や、学習院大学図書館蔵本(九条家旧蔵)三巻三冊中の中・下巻等が古態本とされています。
古態本の上巻と中巻では、平清盛の凛々しい姿や、朝廷への忠誠心を積極的に語っており、反乱に荷担した源氏を否定的に扱っています。そのため、原『平治物語』作者は王朝秩序を重視する立場から、反乱鎮圧の物語を描くことを構想したと推測できます。しかし、下巻の大部分は源氏の後日譚が占めています。これは原『平治物語』成立からそれほど時間を隔てず増補されたのだと考えられています。この改作により『平治物語』は源氏一族の悲劇と再興への伏線を語る物語へと変化しました。なお、この源氏後日譚は『平治物語』増補者による創作ではなく、当時通行していた独立の作品を取り込んだものと考えられています。
永仁五年(一二九七)の序文を有する『普通唱導集』に、「琵琶法師、伏惟、ゝゝゝゝ勾当。平治・保元・平家之物語、何皆諳無滞」とあり、『花園天皇宸記』元亨元年(一三二一)四月十六日条に、「召盲目唯心令弾比巴、以比巴如箏弾之、誠不可説殊勝者也。平治・保元・平家等時ゝ語也」とあって、琵琶法師が語った物語の中に『平治物語』が含まれていたことが分かります。語りの台本とされたのは主に「古態本」だと考えられています。
第二の大きな改作は、室町末期・戦国期に行われました。この段階のテキストは「流布本」と呼称されています。
文安二年(一四四五)または同三年(一四四六)に成立した『壒囊鈔』の文章が「流布本」に引用されているため、「流布本」の成立の上限は一四四六年となります。また、一条兼良の『榻鴫暁筆』には「流布本」の記述が引用されています。これらのことから、「流布本」が成立した年代は一四四六年が上限となり、一五五〇~一五六〇年前後が下限となります。「流布本」は江戸時代に出版された『平治物語』の底本にされたため、江戸時代以降の日本人に最も読まれた『平治物語』のテキストになりました。
「古態本」が成立したのは鎌倉時代であり、「流布本」が成立したのは室町末期・戦国期です。そのため、「古態本」と「流布本」それぞれの義経の描かれ方を比較することで、鎌倉時代と室町末期・戦国期の義経に対するイメージの違いを知ることができます。
『平治物語』下巻「牛若奥州下りの事」では、鞍馬寺に預けられた義経が奥州藤原氏を頼るまでの経緯が語られています。この物語では、常葉は清盛の寵愛を受け、彼女の三人の子供は寺に預けられることになりました。末子牛若は鞍馬寺の東光坊阿闍梨蓮忍の弟子である禅林坊阿闍梨覚日の弟子となり、遮那王と名乗りました。十一歳の時、遮那王は常葉の言葉や諸家の系図に基づき、自身の出自が源氏の血統に連なることを知りました。そして、平家を滅ぼし亡き父義朝の無念を晴らそうと決意し、武芸の稽古を始めました。
「古態本」(『新日本古典文学体系』学習院大学図書館蔵本を底本とする)
「流布本」(『流布本平治物語 保元物語』、貞享二年文台屋治郎兵衛版本を底本とする。)
「古態本」では、自身が源氏の血統に連なることを知った遮那王は、後三年の役における功績により出羽守に昇進した源義家のように、自身も功績を上げて父義朝の本望を遂げようと決意しました。そこで、本尊の毘沙門天の持つ剣を授けてくれるよう師の禅林坊に願いますが、別当や大衆が同意しないことを理由に断られてしまいます。そして、隣の坊に住む稚児を誘って出かけ、市中にたむろする若者たちを小太刀や打刀で切りつけて追いかけ回すという乱暴な様が語られます。
一方で、「流布本」ではそうした乱暴な武士としての義経像は描かれなくなり、昼間はもっぱら学問を行うという知的な側面が強調されています。この語り方の違いは、人々が理想とする武士像の変化を表しているかもしれません。
僧正谷で毎晩武芸の修行を行ったという描写は「古態本」・「流布本」共通しています。しかし、その語り口には異なる点があります。
「古態本」に「僧正が谷にて、天狗・化の住むと云」とあるように、「古態本」が成立した鎌倉時代の時点で「僧正が谷=天狗の住む異界」とすでに認識されていたことが分かります。しかし、学習院大学図書館蔵本では、僧正が谷は天狗・化け物が住む異界と語られているものの、義経が天狗から兵法を習ったとは語っていません。しかし、同じく「古態本」に属す松本文庫蔵本・国文学研究資料館蔵本(宝玲文庫旧蔵)・彰考館文庫蔵京師本では「僧正か谷にて、天狗はけ物のなん(国文学研究資料館蔵本は「住」、彰考館文庫蔵京師本は「すむ」に作る)所へ夜な〳〵行て兵法をならひ、彼難所を(をも)夜る〳〵こえて貴布禰の社へそ参りける」とあります。「兵法をならひ」という語句は、「天狗から兵法を習った」とも、「天狗が住む所で兵法を修練した」とも解釈することができます。この箇所の詞章の相違は、学習院大学図書館蔵本の誤脱か、松本文庫蔵本等の後補か、判断が難しいです。これのことから、「義経が天狗から兵法を習った」という伝承が鎌倉時代の時点ですでにあったのか、今の段階では確実なことは言えません。
一方で、「流布本」には「天狗と夜な〳〵兵法を習ふと云々」とあり、「義経が天狗から兵法を習った」という伝承が明確に語られています。
また、義経の超人的な武芸と僧正が谷詣でとの因果関係の有無についても違いがあります。
「古態本」では義経の築地(土塀)や端板(板塀)を飛び越える優れた身体能力が語られています。しかし、それは市中で若者を追いかけ回すという乱暴な行動の一貫として語られており、「僧正が谷詣でた(あるいは僧正が谷で兵法を訓練した)結果そうした身体能力を身に着けた」とは語られておらず、超人的な武芸と僧正が谷詣でとの間に明確な因果関係は成立していません。
それに対して、「流布本」では「僧正が谷にて、天狗と夜な〳〵兵法を習ふと云々。されば早足、飛越、人間の業とは思へず。」と語られており、僧正が谷での天狗との兵法訓練と超人的な武芸との間に明確な因果関係が存在します。
以上のことから、鎌倉時代において「義経が天狗から兵法を習った」という伝承はいまだ明確になっておらず、それが現在知られるような形になったのは南北朝時代から室町時代にかけてではないかと考えます。
なお、江戸時代の義経伝説では、義経は鬼一法眼の弟子である鞍馬寺の僧侶から剣術を習ったとあります。私はすべての『平治物語』の諸本に目を通したわけではないので断定的なことは言えませんが、少なくとも学習院大学図書館蔵本と貞享二年文台屋治郎兵衛版本にはそのような場面はありませんでした。そのため、鬼一法眼の伝承は後世に付加されたのではないかと思います。
参考文献
栃木孝惟等校注『保元物語 平治物語 承久記』新日本古典文学体系、岩波書店、一九九二年。
小井土守敏・滝沢みか『流布本平治物語 保元物語』武蔵野書院、二〇一九年。
ジャパンナレッジ「https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=816」