素書の由来について

義経の物語にはしばしば中国伝来の四十二巻の兵法書が登場するのですが、実はこの兵法書は実在し、「張良一巻書」「兵法秘術一巻書」「陰符経」「義経虎の巻」等の名称で各地に所蔵されています。

もちろんこの書を読んでも超人的な能力を身につけることは不可能ですが、兵法の秘伝書として戦国武将にも読まれ、中世の日本において一定の認知を得ていました。そうした現実世界での「四十二巻の兵法書」の受容が物語の世界に反映された結果、義経の兵法修行譚が成立しました。

その概要は、有馬成甫・石岡久夫編『諸流兵法(上)』(日本兵法全集六、新人物往来社、一九六七年)、梶原正昭『義経記』巻二補注(日本古典文学全集、小学館、一九八五年)、大谷節子『兵法秘術一巻書』(『日本古典偽書叢刊』第3巻所収、現代思潮社、二〇〇四年)等の解説をご覧ください。
ここでは先行研究で言及されていない点についていくつか述べてみたいと思います。

九条兼実の感激

藤原雅材の

漢高三尺之剣、坐制諸侯。
張良一巻之書、立登師傅。

という句は、藤原公任の編纂による『和漢朗詠集』に収録されたことで平安時代の貴族に広く知られるところとなりました。すると、「張良一巻書」、即ち黄石公が張良に与えたという書は一体なんであるか、という点が貴族の関心事となります。

院政期の貴族である藤原兼実は、『玉葉』「治承五年二月廿二日の条」に次のような出来事を記しています。

入夜外記大夫師景参上、持来素書一巻、依先日召也、今日依吉曜持参之由所申也。此書、相伝之人甚少、先年祖父師遠、自白川院下給、深以秘蔵、伝在彼家、余聞此由、仰可加一見之由、雖子孫、容易不可伝授之由、師遠書起請、仍恐懼甚多、進退惟谷、竊致起請之間、夢中有可許之告、(注 其状在別紙、他事等相交、為師景、為余総以最吉之祥也)仍手自終写功、今日所持参也、霊告厳重、殆拭感涙、余謹正衣裳以読合之(注 余披新、師景持本也)張良一巻書即是也、黄石公於圯上授子房、伝之登師伝之書也、而余不慮得之、豈可不悦哉、抑張良一巻之書、或称六韜、或謂三略、其説区々、古来難儀也、然而、晋簡文帝説、尤足為証拠、何況、六韜者即太公之兵法也、黄公更授子房之条、其理頗不当歟、三略者張良自所作也、然者於圯橋之上、自黄公之手受之書、即以素書、可謂真実、彼三略者伝得此書之後、所制作歟、世人深不悟此義歟、但区々末生、難決是非、只任一旦之愚案、為後鑒録子細許也(下略)

夜、外記大夫の中原師景が兼実の屋敷に参上し、『素書』という書物一巻を持ってきました。この書は当時の日本では所持するする人がとても少なく、師景が所持するものは、かつて彼の祖父である師遠が白河院より下賜され、中原家に深く秘蔵されていたものでした。兼実はこの由を聞くと、この書を見たい旨を師景に伝えました。本来この書は、子孫であっても用意に伝授してはならないと、師遠が起請文を書いていましたが、師景の夢中に師遠が現れて許しを与えたので、師景は書写して持参してきました。霊告の厳重さに感涙にむせんだ兼実は、衣装を正してこれを読み、この書こそ「張良一貫書」、黄石公が橋の上で張良に授け、張良をして劉邦の師たらしめた書であると確信し、思いかけずこの書を手に入れることができ、大変に喜びました。そして、「張良一貫書」に関する自身の見解を記しました。当時、「張良一貫書」の正体は何かという疑問に対して、『六韜』を挙げる人もいれば、『三略』を挙げる人もいました。兼実はそれらの説を退け、『素書』の序に書いてある「晋簡文帝説」こそ最も証拠とするに足る考えました。そしてさらに、『六韜』は太公望の兵法であり、黄石公が張良に『六韜』を与えたという説は、理に合わないと考え、また『三略』は張良の著書であるとしました。

前回も解説したように、『史記』巻五十五「留侯世家」にて黄石公が張良に伝授したのは「太公兵法」であり、

良嘗閒從容步游下邳圯上、有一老父、(中略)喜曰、「当如是。」出一編書、曰、「読此則為王者師矣。後十年興。十三年孺子見我済北、穀城山下黃石即我矣。」遂去、無他言、不復見。旦日視其書、乃太公兵法也。良因異之、常習誦読之。

『六韜』は先秦時代から唐にかけて存在した太公望関連の書物の一種と考えられ、『三略』の原名は『黄石公三略』であり、『隋書』「経籍志」では黄石公から張良に伝授されたものとされています。

黄石公三略。三巻。下邳神人撰、成氏注。梁又有黄石公記三巻、黄石公略注三巻。

そのため、兼実の見解には誤りがあるのですが、しかし兼実は『素書』こそ黄石公が張良に手ずから授けた「張良一巻書」であると結論付けました。

このように『素書』は兼実を強く感動させたのですが、果たして『素書』は「誰が」「いつ」「どのように」作成したものなのでしょうか?

張商英と『素書』

まず、『素書』が中国の図書目録に著録されているかどうかを確認すると、唐以前の書物を記録した『漢書』「芸文志」『隋書』「経籍志」『旧唐書』「経籍志」『新唐書』「芸文志」には黄石公ないし張良に関係する『素書』は著録されていません。

『素書』が中国で最初に出版されたのは北宋の時で、張商英の注が付されています。

張商英、字は天覚、号は無尽居士、成都府路晋原(今の四川省成都市新津区)の人です。幼い頃から聡明で、治平二年進士に及第しました。王安石が変法運動を開始すると、張商英は王安石に追随して新法党に属しました。

張商英は熱心な仏教徒として知られ、儒者による排仏論が活発になる中、『護法論』で仏教の立場から反論を加え、三教一致を主張しました。日本では張商英の仏教思想が研究対象となることが多いようです。

張商英は北宋の中期から末期にかけて朝廷で活躍し、一時は高い地位に就いており、北宋期の知識人として十分な教養を有していたと考えられますが、『素書』の来歴について「序」の中で次のように述べています。

『黄石公素書』六篇、按『前漢列伝』黄石公圯橋所授子房『素書』、世人多以『三略』為是、蓋伝之者誤也。
晋乱、有盜発子房塚、於玉枕中獲此書、凡一千三百三十六言、上有秘戒、「不許伝於不道・不神・不聖・不賢之人、若非其人、必受其殃、得人不伝、亦受其殃。」嗚呼、其慎重如此。
黄石公得子房而伝之、子房不得其伝而葬之。後五百余年而盜獲之、自是『素書』始伝於人間。然其伝者、特黄石公之言耳、而公之意、其可以言尽哉。
(『黄石公素書』六篇、按ずるに『前漢列伝』の黄石公が圯橋にて子房に授くる所の『素書』なり、世人多く『三略』を以て是と為すは、蓋し之を伝う者の誤なり。
晋乱れ、子房の塚を盜発するもの有り、玉枕の中において此の書を獲、凡そ一千三百三十六言、上に秘戒有り、「不道・不神・不聖・不賢の人に伝うるを許さず、若し其の人に非ざれば、必ず其の殃を受けん、人を得て伝えざれば、亦また其の殃を受けん。」嗚呼、其の慎重なること此の如し。
黄石公子房を得て之を伝え、子房其の伝を得ずして之を葬る。後五百余年にして之を盜み獲、是れ自り『素書』始めて人間に伝う。然れば其の伝は、特に黄石公の言のみ、而して公の意、其れ以って言い尽すべきかな。)

張商英によれば、黄石公が張良に授けたのは『三略』ではなく『素書』であり、『素書』を伝えるべき後継者がいなかった張良は、この書を自身の墓の中に隠しますが、西晋末から東晋の動乱期に張良の墓が盗掘されて『素書』が再発見された、と述べています。

兼実は「晋簡文帝説」が最も証拠とするに足ると考えました。「晋簡文帝」とは、東晋の第八代皇帝の簡文帝のことでしょう。張商英の「序」には東晋の簡文帝に直接合致する箇所がありませんが、「晋乱」がそれに該当するのでしょうか。

『素書』をめぐる中国の議論

新法党の領袖たる王安石は張商英の主張を受け入れていたようで、「張良」と題した詩の中に『素書』を読み込んでいます。

古詩「張良」
留侯美好如婦人、留侯美好なること婦人の如く、
五世相韓韓入秦。五世韓に相たるも韓秦に入る。
傾家為主合壮士、家を傾け主の為めに壮士を合し、
博浪沙中撃秦帝。博浪沙中に秦帝を撃つ。
脫身下邳世不知、身を下邳に脱して世知らず、
挙国大索何能為。国を挙げて大いに索むるも何ぞ能く為さん。
素書一巻天与之、素書一巻天が之に与う、
穀城黄石非吾師。穀城黄石吾師に非ず。
固陵解鞍聊出口、固陵に鞍を解き聊か口を出で、
捕取項羽如嬰兒。項羽を捕取すること嬰兒の如し。
従来四皓招不得、従来四皓招きて得ず、
為我立棄商山芝。我の立棄の為めなり商山の芝。
洛陽賈誼才能薄、洛陽の賈誼才能薄く、
擾擾空令絳灌疑。擾擾として空しく絳灌を疑わしむ。

王安石『臨川先生文集』巻四「古詩」

しかし、中国では張商英が『素書』を出版した当初から張商英の主張を否定する意見がだされました。

南宋末の黄震は、『素書』の内容の要点は特に問題なく、道理に悖る点は少ないとしつつ、この書が黄石公の書であることは否定し、いずれかの「乱世」の時期に作られたものとします。そして、『素書』「元始章」に対する張商英の「失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後礼」という注釈が、「元始章」本文の「夫道徳仁義礼五者一体也」と矛盾することを指摘し、また序の「晋乱、有盜発子房塚、於玉枕中獲此書」という説が浅はかであり、有識者から一顧だにされないことを述べました。

黄石公素書
『素書』六篇、曰「原始」、曰「正道」、曰「求人之志」、曰「本徳宗道」、曰「遵義」、曰「安礼其説」、以道徳仁義礼五者為一体。雖於指要無所取、而其間言語雑出、多生於卑謙、損節背理者寡。特非圯上老人授子房手、乱世之書耳。張商英乃妄為訓釈取老子、失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後礼之說、以言之与本書五者一体之説正相反。甚至為之後序、謂「晋乱、有盗発子房塚、於玉枕中獲此書」、何其鄙歟。幸此言出於商英、識者固所不屑観爾。
(『素書』六篇、曰く「原始」、曰く「正道」、曰く「求人之志」、曰く「本徳宗道」、曰く「遵義」、曰く「安礼其説」、道徳仁義礼の五者を以て一体と為す。指要に於いては取る所無きと雖ども、而して其の間言語雑出し、多く卑謙に生じ、節を損じ理に背く者は寡し。特に圯上老人の子房の手に授くるに非ず、乱世の書のみ。張商英乃ち妄りに訓釈を為すに老子を取り、道を失いてて後に徳、徳を失いて後に仁、仁を失いて後に義、義を失いて後に礼の說は、以て言は之れ本書の五者一体の説と正に相い反す。甚だしきに至りては之の後序を為し、「晋乱れ、子房の塚を盗発するもの有り、玉枕の中に於いて此の書を獲」と謂うは、何ぞ其れ鄙なるかな。幸いに此の言は商英に出で、識者固より観るを不屑する所なるのみ。)

黄震『黄氏日抄』巻五十六「読諸子二」『四庫全書』本

同じく南宋の陳振孫は『直斎書録解題』にて、端的に「依託」であると述べます。

黄石公素書一巻
亦依託也。

『直齋書録解題』巻十二「神仙類」

さらに同じく南宋の晁公武も『郡斎読書志』にて、『素書』は各種の書物の文章を寄せ集めたものだろうと述べます。

素書一卷
右題黄石公著、凡一千三百六十六言。其書言治国・治家・治身之道、而厖乱無統。蓋采諸書以成之者也。
(右黄石公の著と題し、凡そ一千三百六十六言である。その書は治国・治家・治身の道を述べているが、入り乱れて統一されていない。おそらく諸書から採集して一冊になしたものだろう。)

『郡齋読書志』巻第三上

明の都穆は、『素書』が張商英の偽作である証拠として次の三点を挙げました。第一に、自ら高位高官を辞して神仙の道を求めた張良が、玉枕という高価な葬身具を用いるのは不自然であること。第二に、東晋から北宋まで五、六百年間経っているが、その間に知識人が『素書』に一言も言及していないこと。そして第三に、「不許伝於不道・不神・不聖・不賢之人、若非其人、必受其殃、得人不伝、亦受其殃」という戒めの言葉は、「妄示凡、必遭殃咎(妄りに凡に示さば、必ず殃咎に遭わん)」(『許真君石函記』巻下)「此文得之者、可宝而秘之。若伝非人、必遭天譴。得人不伝、亦受其殃。師嘱甚重、可不戒焉(此の文は之を得れば、宝として之を秘すべし。若し人に非ざるに伝えれば、必ず天譴に遭わん。人を得て伝えざれば、亦た其の殃を受けん。師嘱の甚だ重きこと、戒めざるべきか)」(『還丹秘訣養赤子神方』「神火」)「人に非ずして妄りに告げれば、尔を殃うこと明徴なり。此の聖門を密すれば、必ず雲路に登る。慎みて浅学に伝う无かれ、誓いて斯の文を示す莫かれ」(『太清中黄真経』「釈題」)のように、北宋以降に作られた道教の経典でしばしば用いられるものであり、それを秦代の黄石公が用いるのは時代が合わないこと。また、都穆は北宋の蘇軾の意見を引用して、自己の意見を補強しました。

宋張商英注『素書』一巻、謂即圮上老人以授張子房者。其曰、「晋乱、有盜発子房塚、於玉枕中獲之。自是始伝人間。」又曰、「上有秘戒、不許伝於不道・不仁・不聖・不賢之人。若非其人、必受其殃。得人不伝、亦受其殃。以為其慎重如此」、此可以見其偽矣。子房以三寸舌、為帝者師。而卒之謝病辟穀、托従赤松子遊、君子称其明哲保身、顧有死而葬以玉枕、其偽一也。自晋逮宋、曆年久遠。豈是書既伝、而薦紳君子、不得而見、亦未聞一言及之、其偽二也。書有秘戒、乃近世術家、欲神其術之俚言、而謂圮上老人為之、其偽三也。且書中之言、往往竊吾儒之緒論、而飾以権詐。蘇文忠謂、圮上老人、秦之隠者。而其言若是、烏足以授子房、其為張氏之偽明矣。
( 宋の張商英『素書』一巻に注し、即ち圮上老人以て張子房に授く者と謂う。其の曰く、「晋乱れ、子房の塚を盜発するもの有り、玉枕の中に於いて之を獲。是れより始めて人間に伝う。」又た曰く、「上に秘戒有り、不道・不仁・不聖・不賢に人伝うるを許さず。若し其の人に非ざれば、必ず其の殃を受く。人を得て伝えざれば、亦た其の殃を受く。」以為らく「其の慎重なること此の如し」、此れ以て其の偽を見るべし。子房三寸の舌を以て、帝者の師と為る。而して之を卒するに病を謝して辟穀し、赤松子に従うと托して遊び、君子其の明哲保身なるを称す、顧るに死有りて葬るに玉枕を以てするは、其の偽の一なり。晋より宋に逮ぶまで、年を曆ること久遠なり。豈に是れ書既に伝わり、而して薦紳君子、得て見ず、亦た未だ一言も之に及ぶを聞かざるや、其の偽の二なり。書に秘戒有るは、乃ち近世の術家の、其の術を神たらしめんと欲するの俚言なり、而して圮上老人之を為すと謂うは、其の偽の三なり。且つ書中の言、往往にして吾儒の緒論を竊み、而して飾るに権詐を以てす。蘇文忠謂えらく、圮上老人、秦の隠者なり。而して其の言の是くの若きは、烏ぞ以て子房に授くに足らんや、其の張氏の偽為ること明かなり。)

都穆『聴雨紀談』「素書」

同じく明の胡應麟は、『素書』の仁義道徳に関する論が、老荘思想や儒学の語をつなぎ合わせたものであると指摘しました。そして、張商英が仏教を信仰し、兜率従悦と大慧宗杲から臨済禅を学んだことを指摘し、本文中の「悲莫悲於精散」・「病莫病於無常」等の語が仏典や道教の経典の語句と極めて近いことを述べました。さらに、張良が墓中に『素書』を隠したがために、諸葛亮以下の人物がそれを読むことができなかったとする張商英の主張を、三尺の童子でも喝破できると批判しました。

『黄石公素書』、宋張商英偽撰者。商英自号無垢居士、学浮屠於釈子従悦、其後宗杲。(中略)今読此書、所称仁義道徳、皆剽拾老荘之膚語、傅合周孔之庸言。而「悲莫悲於精散」・「病莫病於無常」等詞、又仙経仏典之絶浅近者。使商英不為此書、或為之而匿其姓名、亦未知其学之陋、一至是也。若序称子房以殉墓中、自諸葛孔明而下皆不得聞、則三尺童子業能呵斥之矣。
(『黄石公素書』、宋の張商英の偽撰たる者なり。商英自ら無垢居士と号し、浮屠を釈子従悦、其の後宗杲に学ぶ。(中略)今此の書を読むに、称する所の仁義道徳、皆老荘の膚語を剽拾し、周孔の庸言を傅合す。而して「悲莫悲於精散」・「病莫病於無常」等の詞、又た仙経仏典の絶えて浅近なる者なり。商英をして此の書を為さしめず、或いは之を為して其の姓名を匿すも、亦た未だ其の学の陋たるを知らざること、一に是に至るなり。序の子房以て墓中に殉し、諸葛孔明よりして下皆聞くを得ずと称するが若きは、則ち三尺の童子の業も能く之を呵斥せり。)

胡応麟『少室山房筆叢』巻十五「四部正譌中」『四庫全書』本

以上の批判的意見に基づき、清代に書かれた『四庫提要』は、『素書』が張商英の偽作であると断定しました。

臣等謹案、『黄石公素書』一巻、旧本題宋張商英註、分為六篇、一曰「原始」、二曰「正道」、三曰「求人之志」、四曰「本徳宗道」、五曰「遵義」、六曰「安禮」。黄震『日抄』謂「其説以道徳仁義礼五者為一体。雖於指要無取、而多主於卑謙、損節背理者寡。張商英妄為訓釈取老子、先道而後徳、先徳而後仁、先仁而後義、先義而後礼之説、以言之遂与本書説正相反。」其意盖以商英之註為非、而不甚斥本書之偽。然観其後序、所称「圯上老人以授張子房、晋乱、有盜発子房塚、於玉枕中得之、始伝人間」、又称「上有秘戒、不許伝於不道・不神・不聖・不賢之人、若非其人、必受其殃、得人不伝、亦受其殃」、尤為道家鄙誕之談。故晁公武謂「商英之言、世未有信之者。」至明、都穆『聴雨紀談』以為「自晋迄宋、学者未嘗一言及之、不応独出於商英」、而断其有三偽。胡応麟『筆叢』亦謂「其書中『悲莫悲於精散』『病莫病於無常』、皆仙経仏典之絶浅近者。盖商英嘗学浮屠法於従悦、喜講禅理、此数語皆近其所為。」前後註文与本文、亦多如出一手。以是核之、其即為商英所偽撰明矣。以其言頗切理、又宋以來相伝旧本、姑録存之、備參考焉。乾隆四十六年九月恭校上。
(臣等謹んで案ずるに、『黄石公素書』一巻、旧本宋の張商英註と題し、分けて六篇と為し、一に曰く「原始」、二に曰く「正道」、三に曰く「求人之志」、四に曰く「本徳宗道」、五に曰く「遵義」、六に曰く「安禮」。黄震『日抄』に「其の説道徳仁義礼の五者を以て一体と為す。指要に於て取るところ無しと雖も、而して多く卑謙を主とし、節を損し理に背く者寡し。張商英妄りに訓釈を為すに老子を取り、先に道にして後に徳、先に徳にして後に仁、先に仁にして後に義、先に義にして後に礼の説、以て之を言いて遂に本書の説と正に相い反す」と謂う。其の意盖し以て商英の註を非と為すも、而して甚だしくは本書の偽を斥けず。然るに其の後序を観るに、称する所の「圯上老人以て張子房に授け、晋乱れ、子房の塚を盗発するもの有り、玉枕の中に於て之を得て、始めて人間に伝う」、又た称するに「上に秘戒有り、不道・不神・不聖・不賢の人に伝うるを許さず、若し其の人に非ざれば、必ず其の殃を受けん、人を得て伝えざれば、亦た其の殃を受けん」とは、尤も道家の鄙誕の談為り。故に晁公武「商英の言、世に未だ之を信ずる者有らず」と謂う。明に至りて、都穆『聴雨紀談』以為えらく「晋より宋迄、学者未だ嘗つて一言も之に及ばず、応に独り商英に出でず」、而して其の三偽有るを断ず。胡応麟『筆叢』亦た「其の書中の『悲莫悲於精散』『病莫病於無常』は、皆仙経仏典の絶えて浅近せる者なり。盖し商英嘗て浮屠の法を従悦に学び、禅理を講ずるを喜び、此の数語皆其の為す所に近し」と謂う。前後註文は本文と、亦た多く一手に出るが如し。是を以て之を核とするに、其れ即ち商英の偽撰する所為ること明かなり。其の言の頗る理に切なるを以て、又た宋以來相伝の旧本を、姑く之を録存し、參考に備う。乾隆四十六年九月恭んで校上す。

『四庫提要』

「石室から発見される素書」のイメージ

このように、南宋から清代の何人かの学者は『素書』の偽作説を唱えました。おそらくこれら見解は正しいでしょうが、『素書』という書名に関して私なりの見解を付け加えてみたいと思います。

もともと素とは「白絹」という意味であり、素書とは「白絹で作られた書」となります。中国で紙が発明されたのは前漢頃であり、それ以前は木簡や絹に文字が書かれました。その実例としては馬王堆帛書が有名です。

古代において絹は書物全般の書記に使用されたが、しかし後の時代になると「素書」には不思議な書」というイメージが付加されました。

後漢の鍾離意は孔子の廟に保管されていた夫子甕という甕の中から「素書」を発見し、そこには孔子の言葉が記されていました。

意別伝曰、「意為魯相、到官、出私銭万三千文、付戸曹孔訢修夫子車、身入廟、拭几席剣履。男子張伯除堂下草、土中得玉璧七枚、伯懐其一、以六枚白意。意令主簿安置几前。孔子教授堂下牀首有懸甕、意召孔訢問、『此何甕也。』対曰、『夫子甕也、背有丹書、人莫敢発也。』意曰、『夫子聖人、所以遺甕、欲以懸示後賢。』因発之、中得素書、文曰『後世修吾書、董仲舒。護吾車、拭吾履、発吾笥、會稽鍾離意。璧有七、張伯蔵其一。』意即召問伯、果服焉。」
(鍾離意の別伝にこうある、「意は魯の相になり、官として赴任すると、私銭万三千文を出し、戸曹の孔訢に与えて夫子の車を修理し、自ら廟に入り、几席剣履を拭いた。男子張伯は堂下の草を除くと、土中に玉璧七枚を得るが、伯はその一枚を懐に入れ、残り六枚を白に渡した。意は主簿に命じてそれを几前に安置した。孔子教授堂には甕があったので、意は孔訢に問いただした、『この甕は何であるか。』孔訴は答えた、『夫子甕です、中に丹書がありますが、誰も開けたことはありません』意は言った、『夫子は聖人であり、甕を残したのは、後世の者に示すためだろう。』そこでこれを開けてみると、中に素書を見つけ、その文にはこう書かれていた『後世吾が書を修めるものは、董仲舒である。吾が車を護り、吾が履を拭き、吾が笥を開けるのは、會稽の鍾離意である。璧は七枚あるが、張伯がその一つを隠し持っている。』そこで意は張伯を召し出して問いただすと、果たして罪を認めた。」)

『後漢書』巻四十一「鍾離意」李賢注

竹林の七賢の一人で、三国時代を代表する詩人の嵇康は、山沢で遊ぶことを好みましたが、ある日山中の石室で素書を発見しますが、持ち帰ることができませんでした。

康嘗採薬游山沢、会其得意、忽焉忘反。(中略)又於石室中見一巻素書、遽呼康往取、輒不復見。烈乃歎曰、「叔夜志趣非常而輒不遇、命也。」其神心所感、每遇幽逸如此。
(嵇康はかつて薬を採取するために山沢に遊び、その意を得ると、帰ることを忘れてしまった。(中略)(王烈と山に入った日に)王烈はまた石室で一巻の素書を見つけ、慌てて嵇康を呼んで取りに行くが、見つけることができなかった。烈は慨嘆して言った、「あなたの趣向するものは常にあるものではなく、たちまち見つからなくなってしまう、これも運命か。」その神心の感ずること、幽逸に遇うのはこのようである。)

『晋書』巻四十九「嵇康伝」

南朝宋の劉義慶の『幽明録』には、「素書」に書かれた鬼を退ける法により病を退けた説話が記されています。

又曰、河南楊起、字聖卿、少時病瘧、逃於社中、得素書一巻譴劾百鬼法、所劾輙効。
(また、河南の楊起、字は聖卿、若いときに瘧の病をえて、社中に逃げると、素書一巻を得て百鬼を譴劾する法が書かれており、劾するとたちまち効果があった。)

『太平御覧』巻八百八十三 鬼神部三 鬼上所収

『隋書』「経籍志」では、道教の仙人から伝授された書物は「素書」に書かれたとされます。

道経者、(中略)初受五千文籙、次受三洞籙、次受洞玄籙、次受上清籙、籙皆素書。
(道経は、(中略)初め五千文籙を受け、次に三洞籙を受け、次に洞玄籙を受け、次に上清籙を受け、籙はいずれも素書である。)

『隋書』巻三十五「経籍志」道経

張商英の「序」によると、『素書』は張良の墓の「玉枕中」より発見されたとされていますが、『千金要方』の作者であり道士としても有名な唐の孫思邈には『枕中素書』という著書もあります。

自注『老子』、『莊子』、撰『千金方』三十巻、行於代。又撰『福禄論』三巻、『攝生真録』及『枕中素書』、『会三教論』各一巻。

『旧唐書』巻百九十一「孫思邈伝」

唐代の道士である李筌は、少林寺で有名な嵩山の石室で『陰符経』という書物を発見しますが、北宋のときにまとめられた『雲笈七籤』によると、李筌が発見した『陰符経』の原本は「素書」でした。

李筌、号達観子。居少室山、好神仙之道、常歴名山、博採方術。至嵩山虎口巖、得『黄帝陰符本経』、素書朱漆軸、緘以玉匣。
(李筌、号は達観子。少室山に居り、神仙の道を好み、常に名山を遍歴し、広く方術を採集した。嵩山の虎口巖に至り、『黄帝陰符本経』を得た、それは素書で朱漆の軸であり、玉匣に封じられていた。)

『雲笈七籤』巻百十二棠二「神仙感遇伝」

また『雲笈七籤』には、春秋時代の呉王闔廬が山中に隠されていた「素書」を入手し、その鑑定を孔子に依頼した、という説話が記されています。

(前略)呉王闔閭時、王出遊包山、見一人在中、問曰、「汝是何人」。答曰、「我姓山、名隱居」。闔閭曰、「子在山必有異見者、試為吾取之」。隱居諾、乃入洞庭、訪遊乎地天一千五百里、乃至焉見一石城。不敢輒入、乃於外齋戒三日、然後入、見其石城門開、於室内玉几上有素書一卷、文字非常。即便拜而奉出呈闔閭。闔閭即召群臣共觀之、但其文篆書不可識、乃令人齎之問孔子(下略)
(呉王闔閭の時、王が包山に遊ぶと、そこで一人のものに会い、問いただした、「お前は何者か」。そのものは答えた「私は姓を山といい、名は隱居といいます」。闔閭が言った、「お前は山に住んでいるので必ずや不思議なものを見たことがあるだろう、我のために取ってみよ」。隱居は承知すると、洞庭という大洞窟に入り、そこは一千五百里もの広さがあって中を探索すると、一つの石城を見つけた。すぐに入ることはできないので、外で3日間の潔斎を行い、その後に入ると、石城の門が開いているのが見え、室内の玉几の上に素書一巻があり、不思議な文字が書かれていた。そこで闔廬に差し出した。闔閭は群臣を召してともに見るが、その文は篆書で書かれており読むことができず、人に命じて孔子に問い合わせた。)

『雲笈七籖』巻三学三道教本始部「霊宝略紀」

このように、南北朝時代以降、「素書」という言葉には「山中などで発見された不思議な書物」というイメージが付加されるようになり、とりわけ北宋の時代には道教との結びつきが強くなります。張商英の「序」に語られる「晋乱、有盜発子房塚、於玉枕中獲此書」という由来も北宋の時代の「素書」イメージを背景に作られたものではないでしょうか。

「顕」の一巻書と「密」の一巻書

以上のように、中国の歴代の学者たちから『素書』の偽作説が繰り返し述べられ、定説となっています。

しかし兼実は張商英の「序」の記述を信じ、「張良一巻書=素書」説を日記に書き残しました。そしてこのことが、「四十二巻の兵法書」に大きな影響を与えます。

「四十二巻の兵法書」の現存最古の伝本である尊経閣文庫蔵『兵法秘術一巻書』の跋文に次のようにあります。

一巻(クヱン)の書につきて顕(ケム)有り、密(ミツ)有り、顕は素(ソ)書也、兵法には侍(ハン)へらす、良将(リヤウシヤウ)の陰謀(インホウ)帝者の治術はたゝこの一巻(クヱン)素(ソ)書に極(キワマ)れり、帷幄(ヰアク)の裏(ウチ)のはかり事千里の外(ホカ)の勝(カチ)をとる者也(ナリ)、密は此(コノ)秘(ヒ)術也、兵法なり、敵陣(テキチム)の成敗(ハイ)すゝみしりそきを士卒(シソツ)にはかり見る事、此(コノ)妙略の神書に過(スキ)たる物ノは侍(ハンヘラ)らする、此伝(コノテン)をしらさる人は一巻(クヱン)の名言(ミヤウコン)にまとへり、

『日本古典偽書叢刊 第3巻』所収「兵法秘術一巻書」、現代思潮新社、二〇〇四年

『兵法秘術一巻書』跋文は「(張良)一巻の書」には「顕」と「密」の二種類があることを主張し、『素書』が「良将の陰謀帝者の治術」「帷幄の裏のはかり事千里の外の勝をとる」政治道徳の書たる「顕」の「一巻書」であり、「敵陣の成敗すゝみしりそきを士卒にはかり見る」といった戦陣における秘術を記した『兵法秘術一巻書』が「密」の「一巻書」であると述べます。

また、張商英の「序」によると、『素書』が盗掘される際、「不許伝於不道・不神・不聖・不賢之人、若非其人、必受其殃、得人不伝、亦受其殃。」という戒めの言葉が記されていたそうですが、この言葉は『兵法秘術一巻書』跋文の

然レハ則ハチいましめていはく不道不信不聖(セイ)不賢(ケン)の人に伝(ツ)る事なかれといへり、非人(シン)非家(ケ)に伝るも殃(ワサハヒ)にあふ也、其ノ人をゑて伝(ツ)へさるも殃(ワサハヒ)にあふ也、是をおもひ是をつゝしむへし、あなかしこ〳〵

と完全に一致しており、おそらくは張商英の「序」からの引用であり、『兵法秘術一巻書』跋文作者が『素書』を閲読していたことの傍証となります。

中原師景書写の『素書』の書端

ちなみに、兼実の『玉葉』「治承五年二月廿二日の条」には、『素書』の日本伝来の由来を次のように記しています。

又此書相承次第、加匡一房説者、彼張良末胤、渡我朝、所謂、張修理(不知実名)、是也、件男伝持此書、為故資綱中納言家僕、何令進主君欺、在彼中納言家云々、其子家賢卿之時、進白川院、自彼院、師遠所下賜也、余案之、件書端、小野宮右府以此書、有被送入道中納言顕基卿許之状、資綱者顕基子也、以之推之、彼張修理、砥候資綱卿之許之問、以其因縁、伝比書欺之之由、匡房卿致邪推敗、実資公、已伝比書、何必限張修理哉、是又愚案也、定不叶正説。

兼実に『素書』を見せた中原師景は、この書は白河院から師景の祖父である師遠に下賜されたものであると述べました。

大江匡房は、北宋から張良の末胤を自称する「張修理」という人物が『素書』を携えて渡来し、源資綱の家臣となり、主君に『素書』を進上し、資綱の子の家賢の時に白河院に進呈し、そして白河院より師遠へ下賜された、とします。なお、この匡房の言談は現行の『江談抄』には見えません。

一方で、中原師景書写の『素書』の書端には、藤原実資がこの書を源顕基に送ったという書き込みがありました。

これらの人物を生年順に並べると次のようになります。

  • 藤原実資:957年ー1046年

  • 源顕基:1000年ー1047年

  • 源資綱:1020年ー1082年

  • 大江匡房:1041年ー1111

  • 源家賢:1048年ー1095年

  • 白河院:1053年ー1129年

  • 中原師遠:1070年ー1130年

日本に『素書』をもたらしたのが源資綱と同時代の「張修理」とすると、「藤原実資がこの書を源顕基に送った」、すなわち実資が『素書』を所持していたという中原師景書写の『素書』の書端の記述と齟齬が生まれてしまいます。

兼実は匡房の説は邪推であり、「張修理」以外にも『素書』を日本にもたらした者がいたのではないかと推測します。

しかし、すでに述べたように、『素書』は張商英による偽作の可能性が高く、張商英の生没年は1043年ー1121年であるため、実資や顕基が『素書』を所持したとは考えられません。そのため、実資が所持したという書き入れは、自家が所持する『素書』を権威付けるために中原氏の者よって捏造されたものでしょう。

また、「張修理」という人物の来歴について、詳しい記録は残されていませんが、平安中・後期に「張」姓のものが来航したこと、そして鎌倉時代のことになりますが、博多周辺の宋人コミュニティーの中に「張」姓の人物がおり、貿易に従事していたことが記録されていますので、「張修理」もおそらく貿易目的で来日した宋人の一人なのでしょう。

参考文献:
大谷節子「『張良一巻書』伝授譚考―謡曲『鞍馬天狗』の背景―による」『室町藝文論攷』三弥井書店、一九九一年。
伊藤真「二人は李通玄の華厳思想に何を求めたのか―宋代中国の張商英と鎌倉時代の明恵―」『印度學佛敎學硏究』、日本印度学仏教学会二〇一七年。
安藤智信「宋の張商英について--仏教関係の事蹟を中心として」『東方學』東方学会、一九六一年。
廣田宗玄「張商英の『清浄海眼経』について」『印度学仏教学研究』、日本印度学仏教学会、二〇〇五年。
安藤智信『中国近世以降における仏教思想史』法蔵館、二〇〇七年。
森公章「平安中・後期の対外関係とその展開過程」『東洋大学文学部紀要. 史学科篇』東洋大学、二〇一五年。
服部英雄「博多の海の暗黙知・唐房の消長と在日宋人のアイデンティティ」『内陸圏・海域圏交流ネットワークとイスラム : 九州大学21世紀COEプログラム(人文科学)「東アジアと日本:交流と変容」』二〇〇六年。
崔淑芬「謝国明と博多についての一考察」『筑紫女学園大学・筑紫女学園大学短期大学部紀要』二〇〇九年。

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