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『本朝武芸小伝』に引用された『駿府政事録』および『雍州府志』

関東七流・京八流の伝承は日本の剣術の始まりを語るものであり、剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素ですが、しかし、それが本当に実際にあったことなのか、それとも架空の作り話であるのかについて十分な検討が行われていないと感じ、この場を借りて私の個人的見解を述べています。

以前のnoteはこちらをご覧ください。

前回は『本朝武芸小伝』の関東七流・京八流に関わる伝記にどのような書物が引用されているかを確認しました。今回から数回をかけてこれらの書物の概要を確認し、日夏繁高が各書を引用した意図を探りたいと思います。今回は巻六「吉岡拳法」に引用された『駿府政事録』・『雍州府志』の二書を取り上げます。

『駿府政事録』は、江戸時代初期の慶長十六年(一六一一)八月一日から元和一年(一六一五)十二月二十九日までの、駿府城における徳川幕府の政治録・日記をまとめたものです。漢文体で全九巻。ほぼ同様の内容のものとして、別に『駿府記』があります。

武蔵と決闘した後の吉岡流について、武蔵側の伝承では吉岡家の剣術は廃絶されたと伝えられています。

宮本武蔵墓志曰、(中略)武蔵到洛陽、与吉岡数度決勝負、遂吉岡兵法家泯絶矣。(宮本武蔵墓志に曰く、(中略)武蔵洛陽に到り、吉岡と数度勝負を決し、遂に吉岡兵法家は泯絶せり。)(巻六「宮本武蔵政名」)

一方で、『駿府政事録』の次の記事から、慶長十九年まで吉岡流が存続したことは確実です。

慶長十九年六月廿九日、今日従京都伊賀守註進申曰、今月廿二日、禁裏御能然処、狼藉者乍立見物。警固之者制之門外追出。件者、羽織之下竊抜刀匿脇、又入御門、截殺警固之者、則其者被殺当座、御庭流血故、晴天俄雲雷雨云云。右之狼藉者、云建法剣術者、京之町人也云云。(慶長十九年六月廿九日、今日京都伊賀守より註進申して曰く、今月廿二日、禁裏御能然る処、狼藉者乍ら立ちて見物す。警固の者之を制して門外に追い出す。件の者、羽織の下に竊に刀を抜き脇に匿す、又た御門に入り、警固の者を截殺し、則ち其の者殺当座に殺され、御庭に流血するが故、晴天俄に雲雷雨すと云云。右の狼藉者、建法剣術と云う者、京の町人なりと云云。)

慶長十九年六月二十九日、京都の内裏で能が催されました。ある狼藉者がこの能を見物しようとしますが、警護の者に制止され追い出されてしまいます。狼藉者はこのことを恨み、羽織の下に抜身の刀を隠し持ち、再び内裏に入り込むと警護の者を斬り殺してしまいます。この事件の犯人である狼藉者の名は建法、すなわち吉岡拳法であると『駿府政事録』は伝えています。

なお、『本朝武芸小伝』が引用する「宮本武蔵墓志」とは、承応三年(一六五四)に武蔵の養子伊織が建てた『小倉碑文』のことです。

『雍州府志』は山城国に関する初の総合的・体系的な地誌です。雍州とは古代中国の都であった長安が所在する地域のことですが、『雍州府志』は山城国を中国の雍州になぞらえています。体裁は中国の地誌『大明一統志』にならい、山城国に所在する八郡それぞれの地理・沿革・風俗行事・神社・寺院・特産物・古蹟・陵墓などを漢文で記述しています。著者の黒川道祐は安芸国出身の医者でしたが、京都で儒学者林羅山に学び、天和二年(一六八二)から貞享三年(一六八六)にかけて『雍州府志』を編纂しました。

『雍州府志』からは次の一段が引用されています。

西洞院四条吉岡氏、始染黒茶色、故謂吉岡染。倭俗毎事如法行之、称憲法。斯染家吉岡祖毎事如此、故称憲法染。此人得剣術、是称吉岡流、而行于今也。(西洞院四条の吉岡氏、染黒茶色に染むるを始む、故に吉岡染と謂う。倭俗毎事に法の如く之を行い、憲法と称す。斯の染家吉岡の祖毎事に此の如し、故に憲法染と称す。此の人剣術を得、是れ吉岡流を称し、而して今に行わるるなり。)

慶長の頃、吉岡拳法(憲法)は染物屋を始め、「憲法染」という独自の染め方を開発したと伝えられています。『雍州府志』のこの段は憲法染の由来を伝えるものです。

以上、『本朝武芸小伝』巻六「吉岡拳法」に引用された『駿府政事録』・『雍州府志』の二書の概要を確認しました。日夏がこの二書を引用した意図は、吉岡拳法(憲法)および吉岡流が実在したことを証明するためであることは言うまでもありません。実際、『駿府政事録』・『雍州府志』という比較的信頼のおける書物に記録されていることから、具体的な活動については不明な点があるものの、吉岡流が実在したことは間違いないと考えてよいでしょう。

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