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『本朝武芸小伝』に引用された『兵術文稿』について(1)

関東七流・京八流の伝承は日本の剣術の始まりを語るものであり、剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素ですが、しかし、それが本当に実際にあったことなのか、それとも架空の作り話であるのかについて十分な検討が行われていないと私は感じ、この場を借りて私の個人的見解を述べています。

以前のnoteはこちらをご覧ください。

日夏繁高は『本朝武芸小伝』を編纂するに当たりさまざまな書物を引用しています。それらの書物の概要を数回にかけて確認し、日夏が各書を引用した意図を探りたいと思います。今回は巻六「大野将監」に引用された『兵術文稿』取り上げます。

以前のnote「『本朝武芸小伝』に引用された『神社考』および『俗弁』」(1)(2)で述べたように、日夏繁高は「大野将監」にて「天狗から剣術を習った」と自称する輩に対して批判的な態度をとり、「源義経は天狗から剣術を習った」という伝説が事実ではないことを証明するために、林羅山の『本朝神社考』及び井沢蟠龍の『広益俗説弁』を引用しています。そして、日夏はこの二書に続けて『兵術文稿』の次の一文を引用しています。

兵術文稿曰、「源義経住鞍馬寺之日、従鬼一之門人鞍馬寺僧、而習剣術於僧正谷。是所以欲深密而神之也。世人不知、而謂牛若君師天狗也。」
(兵術文稿に曰く、「源義経鞍馬寺に住するの日、鬼一の門人鞍馬寺僧に従して、剣術を僧正谷に習う。是れ深く密にして之を神にせんと欲する所以なり。世人知らずして、謂牛若君天狗に師すると謂うなり。」と。)

一読して分かるように、『兵術文稿』も「源義経は天狗から剣術を習った」という伝説に対して批判的な態度をとっており、鬼一法眼の弟子である鞍馬寺の僧侶から習ったという事実を隠す目的でそのような伝説が作られたと述べています。

この『本朝武芸小伝』に引用された一文のみを読むと、『兵術文稿』は義経の伝説を否定する目的で引用されたのだろうと理解することができます。しかし、『兵術文稿』の原文を読んでみると、実は『兵術文稿』が関東七流・京八流の伝承と深い関わりを持っていることが判明します。

『兵術文稿』は江戸時代初期の甲州流軍学という流派に属す書です。甲州流軍学は戦国時代の武将武田信玄の戦術を理想とし、武田家の縁者である小幡景憲によって創始されました。

甲州流軍学の代表的著作である『甲陽軍鑑』は、信玄・勝頼期の家臣である高坂昌信(高坂弾正、春日虎綱)の語りを、昌信の甥である春日惣次郎・春日家臣大蔵彦十郎らが口述筆記したもの、とされています。現行本は小幡景憲が欠文を補ったものと考えられています。

小幡勘兵衛平景憲者、甲州武田家人也。(中略)景憲招甲州先方士早川弥三左衛門幸豊・広瀬美濃守景房・辻弥兵衛盛昌・小宮山八左衛門昌久・三科肥前守形幸・辻甚内盛次等、問武田家之兵法、補甲陽軍鑑之闕文、大興起甲州武田兵法。
(小幡勘兵衛平景憲は、甲州武田家の人なり。(中略)景憲甲州先方士早川弥三左衛門幸豊・広瀬美濃守景房・辻弥兵衛盛昌・小宮山八左衛門昌久・三科肥前守形幸・辻甚内盛次等を招き、武田家の兵法を問い、甲陽軍鑑の闕文を補い、大いに甲州武田兵法を興起す。)
『本朝武芸小伝』巻一「小幡勘兵衛景憲」

『兵術文稿』は、小幡景憲に甲州流軍学を学んだ香西成資の著書です。香西成資は寛永九年(一六三二)讃岐国で生まれました。幼い頃小早川能久に学び、その後慶安二年(一六四九)から景憲に師事するようになりました。天和二年(一六八二)には筑前の黒田家に仕えました。

予少従小早川氏、始遊小幡氏之門、在于慶安二己丑。
(予少くして小早川氏に従い、始めて小幡氏の門に遊ぶは、慶安二己丑に在り。)
『兵術文稿』巻中「兵法祖其祖弁」
(『兵術文稿』からの引用は、宝永五年(一七〇八)洛陽書林柳枝軒刊本を底本とする甲斐叢書刊行会『甲斐叢書』第九巻、一九三四年による。)

香西の若年の頃の師である小早川能久は、戦国時代の武将毛利元就の八男、小早川秀包の三男です。

先師能久者、其先出于平城帝皇子阿保親王、其四世大江維時之遠裔、毛利元就之八男、小早川秀包、為筑後州久留米城主、其三男能久也。
(先師能久は、其の先平城帝皇子阿保親王に出で、其の四世大江維時の遠裔、毛利元就の八男、小早川秀包、筑後州久留米城主と為り、其の三男能久なり。)
『兵術文稿』巻上「倭邦陳法伝来説」

能久は少年の頃から兵書を好み、時期は不明ですが、小幡景憲より甲州流軍学を学びました。 小早川能久の生没年は不明ですが、父である小早川秀包の生年は永禄十年(一五六七)で没年は慶長六年(一六〇一)であり、また長兄元鎮の生年は天正十七年(一五八九)で、次兄元貞も生年は不明だが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いの時は父の居城である久留米城にいたことが分かっています。そのため、能久の生年は天正十九年(一五九一)から慶長六年の間となるでしょう。

『兵術文稿』は、香西が師より学んだもの、和漢の書から引用したもの、そして自身が考察した成果を三冊にまとめたもので、宝永五年(一七〇八)頃に成立しました。

是所学于先師之説、与平日所考之倭漢諸説、及所自発揮者、間亦有之也。頃纂其旧稿而刪繁、釐為三冊、命之以『兵術文稿』。
(是れ先師に学ぶ所の説、平日考うる所の倭漢の諸説と、及び自ら発揮する所の者は、間ま亦た之有るなり。頃其の旧稿を纂して繁を刪し、釐めて三冊と為し、之を命ずるに『兵術文稿』を以てす。)
(『兵術文稿』「題兵術文稿」)

『本朝武芸小伝』で引用されたのは、巻下「倭邦陳法伝来説」です。「倭邦陳法伝来説」は小早川と香西の問答を記したものであり、日本における陣法の歴史を論じています。この問答の中で関東七流と京八流の伝承が詳細に論じられています。(続)

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