『本朝武芸小伝』に引用された書物について
関東七流・京八流の伝承は日本の剣術の始まりを語るものであり、剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素ですが、しかし、それが本当に実際にあったことなのか、それとも架空の作り話であるのかについて十分な検討が行われていないと私は感じています。
前回までに
・関東七流・京八流の開祖とされている国摩眞人・鬼一法眼はいずれも架空の人物なのではないか
・香取神道流において関東七流の伝承は主流のものではないのではないか
・『本朝武芸小伝』において剣術流派を分類する概念として関東七流・京八流という語が用いられているが、その語られ方には大きな差異がある
という点を述べました。今回は『本朝武芸小伝』における京八流と関東七流の語られ方の差異が生まれた原因について考えてみたいと思います。
『本朝武芸小伝』は日夏繁高によって書かれた日本人の武術・武道関係者の最古の列伝集です。全十巻で、兵法・諸礼・射術・馬術・刀術・槍術・砲術・小具足・柔術の九分野の流祖について詳しく述べています。一般的に過去の歴史を叙述する際は各種の資料を参照し、そしてどのような資料を参照したか(あるいは参照しなかったか)によって叙述の仕方に差異が生まれます。繁高も『本朝武芸小伝』を編纂するに際しては多くの書物を参照しており、しばしば「○○曰」としてその書物の文を引用しています。そのため、関東七流・京八流に関わる人物の伝記にどのような書物が引用されているかを分析することで、京八流と関東七流の語られ方の差異が生まれた原因を知ることができます。また同時に、この作業を通して江戸時代前期において関東七流・京八流に関してどのような情報が世間に流布していたのかを知ることもできます。
前回取り上げた伝記に引用されている書物は以下の通りです。
巻六「吉岡拳法」:『駿府政事録』、『雍州府志』、「或曰」
巻六「大野将監」:『神社考』、『兵術文稿』、『俗弁』、『北条五代記』
巻六「方波見備前守」:『北条記』
巻六「宮本武蔵政名」:「宮本武蔵墓誌」
巻六「前原筑前守」:『甲陽軍鑑』
巻五「飯篠山城守家直」:『早雲記』
巻五「塚原卜伝」:『甲陽軍鑑』、『同結要本』、『勢州軍記』、「或書」
巻六「吉岡拳法」では、『駿府政事録』の
慶長十九年六月廿九日、今日従京都伊賀守註進申曰、今月廿二日、禁裏御能然処、狼藉者乍立見物。警固之者制之門外追出。件者、羽織之下竊抜刀匿脇、又入御門、截殺警固之者、則其者被殺当座、御庭流血故、晴天俄雲雷雨云云。右之狼藉者、云建法剣術者、京之町人也云云。
と、『雍州府志』の
雍州府志曰、西洞院四条吉岡氏、始染黒茶色、故謂吉岡染。倭俗毎事如法行之、称憲法。斯染家吉岡祖毎事如此、故称憲法染。此人得剣術、是称吉岡流、而行于今也。
という記事を引用しています。前者は吉岡氏の者が慶長十九年に禁中で騒ぎを起こしたことを伝えるものであり、後者は吉岡氏が剣術の他に染色業を生業としていたことを証言しています。繁高は両書を引用することで、剣術家吉岡氏が実在したことを証明しようとしたのだと考えられます。また、巻六「宮本武蔵政名」に引用された「宮本武蔵墓誌」には
到京都、有扶桑第一兵術吉岡者、請決雌雄。
という一文があり、当時吉岡氏が有名な剣術家であったことが述べられています。そして、書名は明記されていませんが、吉岡流の来歴に関して「或」の
・祇園藤次に学んだ
・鬼一法眼の流である
という二説を挙げています。
巻六「大野将監」では『神社考』の
世伝源牛弱、初名舎那王丸、遁平治之乱、入鞍馬寺。一日到僧正谷、逢異人。(割注 一云、山伏。)異人教牛弱以剣術、且盟曰、我為舎那王之護神。其後、時時与異人遇于僧正谷。善習其刺撃之法。牛弱素好軽捷、至此、益精。及十五歳、往奥州。寿永・元暦之際、与平氏合戦、其功居多。文治之始再遊鞍馬山、不復得見異人。牛弱、即源廷尉義経、是也。
と、『兵術文稿』の
源義経往鞍馬寺之日、従鬼一之門人鞍馬寺僧、而習剣術於僧正谷。是所以欲深密而神之也。世人不知、而謂牛若君師天狗也。
『俗弁』の
義経天狗に剣術を学ひたる事、東鑑・盛衰記・義記にもみえす。うたかふらくは、義経世を憚りて潜に師を求め、夜々剣術を学ひたるかと云り。
そして『北条五代記』の
根岸は常に魔法を行ひ、天狗の变化と云、夜の臥所を見たる者なし、愛宕山太郎坊夜々来て兵法の秘術を伝ふると書たり。
という四つの記事を引用しています。『神社考』・『兵術文稿』・『俗弁』の三書は、
「源義経は天狗から剣術を習った」
という伝説が事実かどうかを検討する目的で引用されていると考えられ、『北条五代記』は義経以外の者に関する天狗の伝説を紹介したものと考えられます。
巻六「方波見備前守」に引用された『北条記』の
近江六角殿浪人荒井治部少輔、甘縄左衛門大夫家中ニアリシカ、此人京流兵法ノ名人。又方波見備前ハ諏訪流ノ名人也。又、荒井治部少輔猶子横江彌八ハ奥州ヘ兵法修行ニユキテ、会津殿ヲ弟子ニトリ、諸流ト仕合シテ大ニ名ヲ上タリ。
と、巻六「前原筑前守」に引用された『甲陽軍鑑』の
京流者、堀川鬼一法眼流也。晴幸事跡、在甲陽軍鑑。
は、荒井治部・山本勘助の伝記の出典です。
巻五「飯篠山城守家直」では、『早雲記』の
鹿島は勇士を守り給ふ御神、末代とても誰か仰かさらん。然に鹿島の住人飯篠山城守家直、兵法の修行を伝へしより以来、世上にひろまりぬ。此人中古の開山也。神道流刀術者曰、鹿島・香取の両神より、長威へさつけ給ふ刀術ゆえ、伝書に天真正伝と有。天真正とは両神の御事なりと云り。
という文が引用され、飯篠家直が鹿嶋または香取の神から剣術を授けられた、という伝承が紹介されています。
そして、巻五「塚原卜伝」では『甲陽軍鑑』
つか原ほくてんは、兵法修行仕に大鷹三もとすへさせのりかへ三疋ひかせ上下八十人計召つれありき兵法修行いたし諸侍大小共に貴むやうに仕なすほくてん抔兵法の名人にて御座候。
『同結要本』
塚原卜伝と云兵法の上手勝れたる名人也。子細は此卜伝太刀の極意一つの太刀と名付る也。此太刀をつかひ出者は松本備前守也。(中略)
『勢州軍記』
夫兵法剣術、近来常陸国住人飯篠入道長威斎受天真之伝、立一流。卜伝者、続長威之四伝、尤兼秘術、新復立其流、得名世間也。然卜伝諸国修行、而帰常州、最後之時、欲立其家督、為察三子之心、以木枕、置暖簾之上(中略)
「或書」の四書が引用されています。『甲陽軍鑑』は塚原卜伝が剣術の名人であったことを証言するものであり、『同結要本』は前述したように「一の太刀」が松岡政信より伝わったものであると述べます。そして、『勢州軍記』は塚原卜伝の剣術が飯篠家直の流れをくむことを述べたものです。「或書」は卜伝の逸話を伝えるものですが、その内容は小論の論旨とは特に関係が無いため省略します。
このように、『本朝武芸小伝』の関東七流・京八流に関わる伝記には様々な書物が引用されています。次回、これらの書物についてより詳しく検討したいと思います。