『兵法霊瑞書』「兵法手継」について
義経の物語にはしばしば中国伝来の四十二巻の兵法書が登場するのですが、実はこの兵法書は実在し、「張良一巻書」「兵法秘術一巻書」「陰符経」「義経虎の巻」等の名称で各地に所蔵されています。
もちろんこの書を読んでも超人的な能力を身につけることは不可能ですが、兵法の秘伝書として戦国武将にも読まれ、中世の日本において一定の認知を得ていました。そうした現実世界での「四十二巻の兵法書」の受容が物語の世界に反映された結果、義経の兵法修行譚が成立しました。
その概要は、有馬成甫・石岡久夫編『諸流兵法(上)』(日本兵法全集六、新人物往来社、一九六七年)、梶原正昭『義経記』巻二補注(日本古典文学全集、小学館、一九八五年)、大谷節子『兵法秘術一巻書』(『日本古典偽書叢刊』第3巻所収、現代思潮社、二〇〇四年)等の解説をご覧ください。
ここでは先行研究で言及されていない点についていくつか述べてみたいと思います。
吉水神社旧蔵『兵法霊瑞書』
後醍醐天皇が御所をおいたことで知られる吉野の吉水神社には「四十二巻の兵法書」である『兵法霊瑞書』が所蔵されていました。『兵法霊瑞書』には「兵法手継」「素書手継」「日本手継」という3つの由来書が含まれています。この内「日本手継」については先行研究にて分析されていますが、「兵法手継」「素書手継」に対してはあまり検討されてこなかったようなので、今回は従来検討されてこなかった2つの由来書の内、「兵法手継」の内容を見てみたいと思います。
なお、『兵法霊瑞書』の所在は不明になってしまっているらしく、今での吉水神社で所蔵されているのか、それとも外部に流出しているのか、あるいはすでに失われてしまったのか、確認できません。幸いなことに石岡久夫編『諸流兵法上』(「日本兵法全集」巻六、人物往来社、一九六七年)に全文が収録されているので、ここでは日本兵法全集より引用します。
兵法手継
源以黄石公者非凡人也。公包曰、五先君子九変賢人也、云々。
義皇帝御宇 公𦮼 輔佐天下
黄帝御宇 風后 主執政
堯帝御宇 (義仲和仲) (義舛和舛) 左右
及以内而嶽反耳万ウアリ注
周文皇帝御宇 呂望 主執政
漢高祖帝御宇 蕭何大臣 (項羽与高祖八ヶ年合戦坐)
(廻計於千里三分滅自四十万騎怨敵)
越王勾践時者范蠡而呉王夫差誅之、以雪会稽之恥耳。
後漢光武皇帝御宇 河上公而 (作履念道)
又同武帝御宇 改河上号
東方朔然武帝東方朔顕才学施芸術日出歎曰、悦哉、上仙西王三倫罪東方朔行之配偶於下界明、下之不審楊州鏡亦磨、朕蒙昧崐山之玉宣耳。所謂高祖朝黄石公上代老子、天神降霊而転高祖之政、云々。
【読み下し】
以って源なる黄石公は凡人に非ざるなり。公包曰く、「五先君子九変賢人なり云々」と。
義皇帝御宇 公𦮼 天下を輔佐す。
黄帝御宇 風后 執政を主る。
堯帝御宇 (義仲和仲) (義舛和舛) 左右す。
及以内而嶽反耳万ウアリ注
周文皇帝御宇 呂望 執政を主る。
漢高祖帝御宇 蕭何大臣 (項羽と高祖八ヶ年合戦し、坐りながらにして計を千里三分に廻らし、自ら四十万騎の怨敵を滅ぼす。)
越王勾践の時は范蠡、而して呉王夫差之を誅し、以って会稽の恥を雪ぐのみ。
後漢光武皇帝御宇 河上公、而して (履念道を作る)
又た同じき武帝御宇 河上を改め東方朔と号す。然りて武帝、東方朔の才学を顕し、芸術に施すと、日出でて歎じて曰く、「悦しきかな、上仙西王の三倫、東方朔を罪し、行之配偶於下界明、下之不審楊州鏡亦磨、朕蒙昧にして崐山の玉宣なるのみ。所謂高祖朝の黄石公は上代の老子、天神霊を降して高祖の政を転ず云々」と。
やや難解ですが、現代語にすると概ね次のようになるでしょう。なお筆写の過程で時系列が入れ替わっていると思われる箇所がありますが、一旦そのままとします。
兵法の源である黄石公は凡人と異なっている。公包は、「五先君子九変賢人である」と述べている。
伏羲の時代、公𦮼として天下の政治を輔佐した。
黄帝の時代、風后として執政を掌った。
堯の時代、「義仲和仲」「義舛和舛」として左右に侍った。
「及以内而嶽反耳万ウアリ注」(この文意義不明)
周の文王の時代、太公望として執政を掌った。
漢の劉邦の時代、蕭何として大臣になった。(項羽と劉邦は八年間戦ったが、坐りながら計略を千里先まで廻らし、自ら四十万騎の怨敵を滅ぼした。)
越王勾践の時、范蠡として呉王夫差を倒し、会稽の恥を雪いだ。
後漢の光武帝の時代、河上公として『老子』の注釈を作った。
また同じ武帝の時代、河上公の名を改めて東方朔と号した。そして武帝は東方朔の才学を顕彰し、芸術を発揮させると、日の出とともに慨嘆して言った、「喜ばしいことであるな、高位の仙人である西王母は東方朔の罪を罰して、人間界に落とした。朕は蒙昧であるのに、崐山の玉のような宝が手に入った。高祖(劉邦)の時代の黄石公とは上代の老子であり、天神が霊を降して高祖の政治を転じさせたのだという」と。
史書との齟齬
史書の記述と齟齬がある箇所を挙げると、まず越王勾践・呉王夫差・范蠡は春秋時代の人のため、本来は周の文王の後にくるはずです。そして、「また同じ武帝」とは前漢の武帝のことと考えられ、光武帝の前にくるはずです。しかし河上公は前漢の文帝の時の人という伝承があるので、むしろ「後漢の光武帝」の方が誤りです。
「句芒」
「公包」「公𦮼」は「句芒」の誤写と考えられます。
伏羲は中国古代の帝王「三皇」の一人です。句芒は伏羲を補佐した神とされています。ただし、当初から「句芒が伏羲の補佐をした」という説話が存在したのではなく、中国の神話における句芒の役割は何度か変化しているようです。
『春秋左氏伝』によると、五帝の一人少皥には子孫が四氏あり、彼らは五行を司る官に任じられ、死後は五行の神として祀られました。そして、五行の一つ「木」の神を句芒といいます。
『春秋左氏伝』「昭公二十九年」
故有五行之官、是謂五官。実列受氏姓、封為上公、祀為貴神。社稷五祀、是尊是奉。木正曰句芒。火正曰祝融。金正曰蓐收。水正曰玄冥。土正曰后土。(中略)献子曰、社稷五祀、誰氏之五官也。対曰、少皥氏有四叔。曰重、曰該、曰脩、曰熙。実能金木及水。使重為句芒。
五行の木は、春・東に配当されるので、『礼記』「月令」では句芒は春の神とされています。
『礼記』「月令」
孟春之月。日在営室。昏参中。旦尾中。其日甲乙。其帝大皥。其神句芒。其蟲鱗。其音角。律中大蔟。其数八。其味酸。其臭羶。其祀戸。祭先脾。
『山海経』では、句芒は人面鳥身の神とされています。
『山海経』巻之九「海外東経」
東方勾芒
有神、人面身鳥。
五帝の一人である少皥は、三皇の後の時代の人とされているため、少皥の子孫が神格化された句芒が伏羲の補佐をするというのは時系列があいません。
しかし、古代中国で行われた祭祀では、東西南北中の五方の帝がいるとされ、東方には大皥が祀られました。大皥は『淮南子』では「太皥」、『漢書』では「太昊」と書かれます。
『淮南子』巻三「天文訓」
東方木也。其帝太皥。
『漢書』巻二十五下「郊祀志」
東方帝太昊、青霊、勾芒。
そして、『漢書』「古今人表」では太昊とは宓羲(伏羲)のことであるとされ、
『漢書』巻二十「古今人表」
太昊帝、宓羲氏。
後漢末期の髙誘と鄭玄も同様の説を唱えています。
『淮南子』巻三「天文訓」
東方木也。其帝太皥。
(髙誘注)太皥、伏犧氏有天下号也。死託祀於東方之帝。
『礼記』「月令」
其帝大皥。
(鄭玄注)大皡、宓戲氏。
このように、太皥(大皡、太昊)と伏犧を同一視する説が漢代において定着した結果、「東方の神である句芒が伏羲を補佐した」という説話が成立しました。
「風后」
黄帝は「三皇」、または「五帝」の一人であり、風后は黄帝に仕えた臣下の一人です。
『史記』巻一 五帝本紀 「黄帝」
挙風后・力牧・常先・大鴻。
(集解)鄭玄曰、「風后、黄帝三公也。」
(風后・力牧・常先・大鴻を挙げた。
(集解)鄭玄は、「風后は、黄帝の三公である。」と言った。)
三公とは後漢において行政を司る司徒、軍事を司る太尉、監察・政策立案を司る司空という三つの官を総称したものです。
『帝王世紀』には黄帝が風后を暗示する夢を見た後に、風后を探し出して重用したとあります。
張守節『史記正義』
『帝王世紀』云、「黄帝夢大風吹天下之塵垢皆去。(中略)帝寤而歎曰、『風為号令、執政者也。垢去土、后在也。天下豈有姓風名后者哉。(中略)』於是依二占而求之、得風后於海隅、登以為相。」
(帝王世紀に云く「黃帝夢に大風吹きて天下の塵垢の皆な去るをみる。(中略)帝寤めて歎じて曰く、『風は号令たりて、執政する者なり。垢は去りて土になり、后に在るなり。天下に豈に姓風名后の者有らんや。(中略)』是に於いて二占に依りて之を求め、風后を海隅に得て、登りてもって相に為す。)
また、風后は陰陽五行説や易にも通じていたとされ、風后に仮托された陰陽五行の書が著録されています。
『漢書芸文志』巻三十「兵書略」〈陰陽〉
「風后十三篇。図二巻。黄帝臣、依託也。」
「術数略」〈五行〉
「風后孤虛。二十巻」
また、『後漢書』の李賢注が引用する『春秋内事』には、「黄帝師於風后、風后善於伏羲氏之道、故推演陰陽之事。」とあり、風后が「伏羲氏之道」、即ち易に通じていたとあります。
さらに、中国古代の陣法とされる八陣法の経典『握奇経』は、著者は風后とされ、漢の公孫宏の解、馬隆の述賛が付されています。
『史記』『漢書』『後漢書』に「公孫宏」の名は見えませんが、『四庫提要』に「漢丞相公孫宏解」とあり、公孫宏は公孫弘のことでしょう。公孫弘は前漢の武帝の頃の人で、一介の庶民から丞相にまで出世した。『史記』巻百十二「平津侯主父列伝」に伝があり、『漢書』「芸文志」〈諸子略〉に「公孫弘十篇。」が著録されています。
馬隆は魏・西晋に仕え、異民族討伐に大いに功績を挙げました。『晋書』巻五十七「馬隆伝」があります。
ただし、『握奇経』は『漢書』「芸文志」から新旧『唐書』「経籍志」に著録されておらず、目録に初めて見えるのは、『宋書』巻二百七「芸文六」〈兵書類〉の「風后握機、一卷、晋馬隆略序。」と「握機図、一巻」です。しかし、盛唐の道士李筌は、自身が撰述した『太白陰経』という兵書のなかで、「風后亦演『握奇図』云、」と言及しており、また晩唐の詩人杜牧の『孫子』の注に、「此言陳法也。風后握奇文曰、四為正、四為奇。」(『十一家注孫子』巻五「勢篇」)の語があるので、『握奇経』が盛唐までには成立していたのは確実です。
『四庫提要』は、「疑、唐以来好事者、因諸葛亮八陣之法、推演為図、托之風后。其後、又因及此記推衍以為此経、併取記中握機制勝之語以為之名。宋史芸文志始著於録、其晚出之顕証矣。」と、唐以降の好事家が諸葛亮の八陣法を敷衍して『握奇経』の図を作り風后に仮托したものだろうとします。
「羲仲」「羲叔」「和仲」「和叔」
堯は五帝の一人です。「義仲和仲」「義舛和舛」とは、正しくは「羲仲」「羲叔」「和仲」「和叔」であり、堯に仕えた四名の臣下です。
『史記』巻一 五帝本紀 「帝堯」
乃命羲・和、敬順昊天、数法日月星辰、敬授民時。分命羲仲、居郁夷、曰暘谷。(中略)申命羲叔、居南交。(中略)申命和仲、居西土、曰昧谷。(中略)申命和叔、居北方、曰幽都。
(乃ち羲・和に命じて、昊天を敬順し、日月星辰を数法し、民時を敬授せしむ。羲仲に分命して、郁夷に居らしめて、暘谷と曰う。(中略)羲叔に申命して、南交に居らしむ。(中略)和仲に申命して、西土に居らしめ、昧谷と曰う。(中略)和叔に申命して、北方に居らしめ、幽都と曰ふ。)
「范蠡」
中国の春秋時代、呉王夫差は父の仇である越王勾践を討とうとして、いつも薪の上に寝て身を苦しめ、また夫差に敗れた勾践は、いつか会稽の恥を雪ごうと苦い胆を嘗めて報復の志を忘れまいとしました。 この説話から「臥薪嘗胆」という故事成語が生まれましたが、范蠡は越王勾践の臣下として計略を巡らせました。
劉向の『列仙伝』には、范蠡が太公望から兵法を習った、という伝承が記されています。
『列仙伝』巻上范蠡
范蠡、字少伯、徐人也。事周師太公望。
『史記』によると、句踐が夫差を倒した後、范蠡は越を去って斉に行き鴟夷子皮と名乗り、更に陶に遷って朱公と称しました。
『史記』巻百二十九「貨殖列伝」
范蠡、既雪会稽之恥、(中略)乃乗扁舟、浮於江湖、変名易姓、適斉為鴟夷子皮、之陶為朱公。
(范蠡、既に会稽の恥を雪ぎ、(中略)乃ち扁舟に乗り、江湖に浮かび、名を変え姓を易え、斉に適きて鴟夷子皮に為り、陶に之きて朱公に為る。)
『列仙伝』では、范蠡は鴟夷子として百余年過ごしてから陶朱公に名を変え、さらにその後も長い時間生きたと記しており、仙人としての雰囲気を帯びています。
『列仙伝』巻上范蠡
後乗軽舟入海、変名姓、適斉、為鴟夷子、更後百余年見於陶、為陶朱君、財累億万、号陶朱公。後棄之、蘭陵売薬。後人世世識見之。
(後に軽舟に乗りて海に入り、名姓を変え、斉に適き、鴟夷子と為り、更に後百余年陶に見れて、陶朱君に為り、財累ねること億万、陶朱公と号す。後に之を棄て、蘭陵にて薬を売る。後人世世之を識見す。)
「河上公」
河上公は『老子』の注釈である「河上公注」を著した人として知られています。現代では『老子』の注釈としては三国時代の王弼の注のほうが読まれる機会が多いですが、中世以前の日本ではむしろ「河上公注」のほうが読まれ、日本の思想に大きな影響を与えました。
ただし河上公という人物は謎に包まれており、実在したかどうかも確証がありません。皇甫谧の『高士伝』巻中「河上丈人」には、どこの国の人かわからないものの、戦国時代末期の人であると述べられています。
河上丈人者、不知何国人也。明老子之術、自匿姓名、居河之湄、著『老子章句』、故世号曰河上丈人。当戦国之末、諸侯交争、馳説之士、咸以権勢相傾。唯丈人隠身修道、老而不虧。伝業於安期生、為道家之宗焉。
(河上丈人は、何国の人か知らざるなり。老子の術に明るく、自ら姓名を匿し、河の湄に居り、『老子章句』を著す、故に世は号して河上丈人と曰ふ。戦国の末に当たり、諸侯交争し、馳説の士、咸な権勢をもって相い傾く。唯た丈人のみ身を隠して道を修め、老いて虧けず。業を安期生に伝え、道家の宗と為る。)
しかし、後漢から三国時代の道士である葛玄は、「河上公注」の序にて漢の文帝の時の人であると述べています。
河上公者、莫知其姓名也。漢孝文皇帝時、結草為庵于河之濵、常読『老子道徳経』。
(河上公は、其の姓名を知るもの莫きなり。漢の孝文皇帝の時、草を結びて庵を河の濵に為し、常に『老子道徳経』を読む。)
葛玄の従孫である葛洪も『神仙伝』巻八「河上公」にて同様の説を記しています。
河上公者、莫知其姓名也。漢孝文帝時、結草為庵于河之濵、常読『老子道徳経』。
「東方朔」
東方朔は、前漢の武帝時代の政治家ですが、『史記』には東方朔の常軌を逸したエピソードが記されており、次第に神格化されて、下界に住む仙人のように描かれるようになりました。
「兵法手継」においても黄石公を兵法の元祖としていますが、ただ「兵法手継」には范蠡・東方朔・河上公のように中国で仙人とされている人物や、風后のように武将としてのイメージが確立するのが唐以降である者が多く登場しており、『史記』「留侯世家」に語られる張良取履説話とは様相を大いに異にしています。
「耀天記」
『兵法霊瑞書』「兵法手継」には非常に奇異な由来が記されていますが、実はこれと非常に似た説話が、中世の天台宗で発達した山王神道の教理書である『耀天記』「山王事 老子ノ九変」に記されています。
凡ソ尺尊出世ノ前後ニ多ク本土ニシテ教勅ヲ受ケテ、九度マデニ賢人ト生テ、多ノ王臣ヲ輔佐シ、給ケリ。老子ノ九変トハ是ナリ。義皇ト申ケル御門御時ニハ、勾荒ト云人ニ生テ、天下ノ政ヲ意ニ任セ、黄帝ノ御時ニハ、風后大臣ト被云、堯帝ノ時ハ、義仲・義叔・和仲・和叔ノ四嶽ト反シ、周ノ文王ノ時ハ、呂望ト化キ。漢ノ高祖ノ時ハ、蕭何大臣ト被云テ、項羽ト天下ヲ争テ八ヶ年マデ乱逆ノシヅマラザリシニモ、千里ノ謀ヲ廻テ四十万騎ノ軍を退ケ、越王勾践ノ時ニハ、范蠡ト云人ニ生テ、呉王夫差トタヽカヒテ、会稽山ニカクレケル、ソノカミ数年ノタバカリカシコクシテ、会稽ノ恥ヲカクトキニキヨメテ、強里ノホマレヲ万代ニウシナヒキ。斉ノ時ニハ、范蠡ヲ改テ陶朱ト被云テ、七珍万宝ヲ国ノ中ニ充満シテ、苟キモノ共ニ与キ。漢ノ武帝ノ御時ニハ、河上公トイハレテ、群民小人ヲイサメ給キ。同武帝ノ時、又ヤガテ東方朔ト反テ、才学ヲ顕シ芸術ヲ施シテ、何事ニモ明カニ有ケレバ、御門是ヲホメ給トテハ、ウレシキカナヤ、上仙西王母東方朔ニ三偸ノ罪ヲヲコナヒ下シテ、下界ニ配隅セサセテ、不審ヲアキラムル楊州ノ鏡ナリ。朕ガ蒙昧ヲミガイツル崐山ノ玉カナトゾアリケル。
(「耀天記」「山王事」続群書類従 第二輯下 神祇部)
おそらく『耀天記』と『兵法霊瑞書』は同一の資料に依拠したのだろうと考えられますが、一体この説話はどのようにして成立したのでしょうか。
「永遠の道たる老子」
この謎を解明する鍵は、中国における老子伝説です。
『史記』
老子は中国の春秋時代を代表する哲学者ですが、しかしその生涯は謎に包まれており、実在したかどうかも疑問視されています。
老子についての最古の記録は、『史記』巻六十三「老子韓非列伝」です。『史記』によると、老子の姓は李、名は耳、字は聃、楚の苦県厲郷の曲仁里の人で、周の守蔵室之史を勤め、孔子と同時代に生き、西域に去っていったことが記されています。
老子者、楚苦県厲郷曲仁里人也、姓李氏、名耳、字聃、周守蔵室之史也。孔子適周、将問礼於老子。(中略)老子修道徳、其学以自隱無名為務。居周久之、見周之衰、乃遂去。至関、関令尹喜曰、「子将隱矣、彊為我著書。」於是老子乃著書上下篇,言道徳之意五千余言而去、莫知其所終。
しかしながら、『史記』は上記の説に続いて、「或曰」として第二の説を挙げます。
或曰、老來子亦楚人也、著書十五篇、言道家之用、与孔子同時云。
この説では、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝えます。
さらに、『史記』は第三の説として、老子が不老長寿の秘術を会得し、160歳とも200歳とも言われていたことを述べます。
蓋老子百有六十余歳、或言二百余歳、以其修道而養寿也。
最後に第四の説として、孔子の死後129年後、秦の献公在位時に生きていた「太史儋」という名の歴史家・占星家について、太史儋と老子を同一人物とする説と、同一人物ではないという説が前漢の頃にあったことを述べ、結局老子を隠君子であると結論づけます。
自孔子死之後百二十九年、而史記周太史儋見秦献公曰、「始秦与周合、合五百歲而離、離七十歲而霸王者出焉。」或曰「儋即老子」、或曰「非也」、世莫知其然否。老子、隱君子也。
このように、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時点で、老子の経歴は既に謎に包まれています。このどのようにも解釈しうる老子の経歴から、後世老子について様々な伝説が生まれることになります。
王阜 『老子聖母碑』
後漢の王阜は(『後漢書』巻八十六「南蛮西南夷伝」〈滇〉「肅宗元和中、蜀郡王追為太守」王先謙『後漢書集解』が引く惠棟の説に「謂「追」字乃「阜」字之誤」とある。) 『老子聖母碑』で
老子者、道也。乃生於無形之先、起於太初之前、行於太素之元、浮游六虛、出入幽冥、観混合之未別、窺清濁之未分。(『太平御覧』天部一「太初」)
と述べ、老子を世界が誕生する遙か昔から存在する永遠の道そのものとします。
仏教には
法身:仏が覚った真実・真理そのもの。
報身:仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿。
応身:この世において悟り、人々の前に現れる釈迦の姿。
という、仏としての特性に3種類あるとする「三身」説があります。
王阜の説もこれに類似したものであり、永遠の真理である「道」を法身とすると、道教の最高神として天上に君臨する「太上老君」が報身であり、現世に現れて『老子』という書物を残した人間としての「老子」が応身に相当します。
葛玄の「河上公注」序には、河上公は『老子』を解読するために天が下した神霊である、という説話を記しますが、
論者以為、文帝好『老子』大道、世人不能尽通其義、而精思遐感上徹、太上道君遣神人、特下教之便去耳。恐文帝心未純信、故示神変、以悟帝、意欲成其道真、時人因号曰河上公焉。
これも報身たる太上道君が応身としての河上公を遣わしたと解釈することができます。
「老子九変説」
仏教では、観音菩薩は衆生を救うために「三十三身」を現すとされています。
後漢の辺韶の『老子銘』には、
世之好道者、以老子離合於混沌之気、与三光為始終。観天作讖、升降斗星、随日九変、与時消息。規矩三光、四象在旁、存想丹田、太一紫房、道成身(仙)化、蟬蛻度世、自羲農(黄)以来、世為聖者作師。
とあり、永遠の道と一体になった老子は姿を九変させ、伏羲・神農・黄帝という三皇の頃から帝王の師となるために繰り返し現れるとされています。
前漢末から後漢にかけて、儒家の経書を神秘主義的に解釈した「緯書」が流行しますが、その一つ『詩緯』には、老子が風后として現れたことや、張良に書を授けたという説話が記されています。
按、詩緯云、「風后、黄帝師、又化為老子、以書授張良」。亦異說。(『史記』巻五十五「留侯世家」太史公賛「索隠」)
後漢末の応劭の『風俗通義』「正失」には、
東方朔
俗言、東方朔、太白星精。黄帝時為風后、堯時為務成子、周時為老聃、在越為范蠡、在斉為鴟夷子皮。言其神聖能興王霸之業、変化無常。
とあり、東方朔、務成子(仙人)、范蠡のいずれも老子が変化した姿であるという俗説が記されています。
このように、古代中国には、帝王の師となるために老子が繰り返し現れるという「老子変化説」がありました。この説が日本に伝来して受容された結果、『耀天記』「山王事 老子ノ九変」や『兵法霊瑞書』「兵法手継」が成立したのです。
老子変化説の資料原文:
朱熹『資治通鑑綱目』巻四十二下「睿宗皇帝景雲二年十一月」引「葛稚川曰」
老子無世不出、数易姓名。初出於上三皇時、号玄中法師。出於下三皇時、号金闕帝君。出黄帝時、号力黙子、又号広成子。出周文王時、為守蔵史、号支邑先生。出周武王時、為柱下史、号郭叔子。出於漢初、号黄石公。出於漢文帝時、号河上公。
『辨正論』巻五 引『元皇暦』
案道經元皇暦云、吾以清濁元年正月甲子。下師伏羲。治國太平白日昇天。又云。未分元年八月甲辰。下師神農。太元元年下師𥙿。一本作松容。凡經一十二代。變爲一十七身。始自玄老。終乎方朔。
参考文献:
山城喜憲「河上公章句『老子道徳経』古活字版本文系統の考索(上)」『斯道文庫論集』慶應義塾大学附属研究所斯道文庫、一九九九年。