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『本朝武芸小伝』に引用された『神社考』および『俗弁』(2)

関東七流・京八流の伝承は日本の剣術の始まりを語るものであり、剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素ですが、しかし、それが本当に実際にあったことなのか、それとも架空の作り話であるのかについて十分な検討が行われていないと私は感じ、この場を借りて私の個人的見解を述べています。

以前のnoteはこちらをご覧ください。

日夏繁高は『本朝武芸小伝』を編纂するに当たりさまざまな書物を引用しています。それらの書物の概要を数回にかけて確認し、日夏が各書を引用した意図を探りたいと思います。前回は巻六「大野将監」に引用された林羅山の『本朝神社考』の概要を確認しました。

『本朝神社考』巻六「僧正谷」では、鞍馬山僧正が谷で源義経が異人(または山伏・天狗)から剣術を習ったという伝説をきっかけに、日本の各種の書籍に記された天狗の逸話が紹介されています。羅山の思想の特徴の一つは仏教の排斥ですが、天狗という存在については必ずしも否定していません。

しかし、繁高は「大野将監」の割注にて

愚想ふに、当世の武術怪を好み、異成を尊む、古流はあしきとて、自流を建て、其師をかくし、其法を偸て妄偽をなし、愚成人をあさむき、我自得は飯篠・富田も不可及とのゝしり、邪智高慢胸中に充たるそ、実に天狗流といふへし。

と述べており、「天狗から剣術を習った」と自称する輩に対して批判的な態度をとっています。そして、「源義経は天狗から剣術を習った」という伝説が事実ではないことを証明するために、林羅山の『本朝神社考』を引用しているのだと考えられます。こうした『本朝武芸小伝』における『本朝神社考』の引用のされ方は『本朝神社考』本来の文脈から逸脱したものであることを述べました。実は、こうした引用の仕方は『本朝武芸小伝』が初めてではなく、「大野将監」に引用されたもう一つの書である『俗弁』に先例を求めることができます。

『俗弁』とは、井沢蟠竜の『広益俗説弁』のことです。井沢蟠竜は寛文八年(一六六八)肥後熊本藩で生まれた神道家です。江戸で山崎闇斎に垂加神道を学び、後に国学・儒学を研究しました。

『広益俗説弁』は、人口に膾炙する通説・俗説について和漢の書を博引旁証して批判した書です。『広益俗説弁』正編巻十二「士庶」では、義経に関するいくつかの伝説が俎上に上がっており、その中には「天狗から剣術を習った」という伝説も当然含まれています。

俗説云、源義経鞍馬にありけるころ、鞍馬の奥に僧正が谷といふ天狗の栖なる故に名つけり。義経夜々此所にゆきて天狗に剣術をまなび、軽捷を得たりといふ。

俗説では、鞍馬山の僧正が谷は、「僧正」という名前の天狗が住んだことに由来し、源義経はその天狗から剣術を学んだと言われていました。蟠竜はこれらの俗説について次のような意見を述べました。

今按ずるに、鞍馬の僧正が谷は、僧正といふ天狗すめる故の名にはあらず。真言伝に、鞍馬の僧正が谷、稲荷山の僧正が峯は、壱演僧正(割注 慈済)のおこなひ給ひける跡と記せり。又天狗の説まち〳〵なり。(中略)羅山氏の説に、人倫に我慢怨怒あるもの多く天狗の中にいる。歴代の天子僧徒にもありといへり。(割注 事詳に神社考に見えたり。)これによつて思ふに、俗にいひつたふるごとく、高鼻長翼にて飛び翔けるといふにては有るべからず、邪智高慢あつて世を乱すたぐひの者をさして、天狗といへるならん。又義経天狗に剣術をまなびたる事、東鑑・盛衰記・義経記にも見えず。うたがふらくは義経世をはヾかりてひそかに師をもとめ、夜々剣術をまなびたるか、然らずんば鞍馬にあるうち、一たび平家をほろぼして、父の仇を復せんと思ふ憤気・高慢、胸中にみちたるを、天狗に剣術を学びたりと形容していへるにや。

まず蟠竜は、「僧正が谷には僧正という名の天狗が住む」という俗説に対して、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した真言宗の僧侶栄海の著書『真言伝』に基づき、僧正が谷という地名の由来は平安時代前期の真言宗の僧侶壱演であり、天狗が住む地であるとの説を否定しました。

次いで、「天狗」という存在の正体について、羅山『本朝神社考』の「僧侶でありながら慢心し怨怒の心を持った者が天狗になった(沙門之有慢心及怨怒者、多入天狗之中)」という記述に基づき、天狗とは高鼻長翼を持ち空を飛び回る存在ではなく、邪智高慢の心を持ち世を乱す者であると主張しました。

また、『吾妻鏡』『源平盛衰記』『義経記』に義経が天狗から剣術を習ったという記述が無いことを指摘しました。

以上の点に基づき、義経が天狗から剣術を習ったという説は、①世を憚ってひそかに師を求め、夜毎剣術を学んだ事を「天狗に習った」と表現したのか、あるいは②鞍馬寺に居住していた当時、平家を滅ぼして父の仇を討とうという憤気・高慢が胸中に満ちた様を「天狗に剣術を学んだ」と形容したのか、いずれかであろうと結論づけました。

現在、蟠竜の『広益俗説弁』に対して、理知的・科学的に俗説を検証していると評価する意見があります。

確かに、『吾妻鏡』等の書物を参照して俗説を検証する過程は科学的と評価することもできるでしょう。また、今回取り上げた義経の伝説に対する蟠竜の見解も、合理的に見えなくもありません。しかし、蟠竜の見解には問題があることを指摘したいと思います。

まず、蟠竜は「天狗」という語を解釈する上で羅山の『本朝神社考』の説を引用し、いわゆる空を駆け回る天狗が実在しないことを主張し、憤気・高慢が胸中に満ちた様を天狗と形容したのだろうと推測しました。しかし、前回述べたように、羅山は天狗の存在自体を否定はしておらず、なにより羅山自身も、伊勢踊りや大阪冬の陣といった実際に見聞した出来事を天狗と結びつけていまし。そして、『本朝神社考』に記されたエピソードに登場する天狗は、不思議な力を持つ存在として描かれており、それは高鼻長翼を持ち空を飛び回る存在に類するものでしょう。なにより、羅山は「僧侶でありながら慢心し怨怒の心を持った者が天狗になった」こともあるとは述べていますが、「邪智高慢の心を持ち世を乱す者」が天狗であるとは述べていません。そのため、『広益俗説弁』における『本朝神社考』の引用は、本来の文脈を無視した恣意的なものと言えます。

そして、「うたがふらくは義経世をはヾかりてひそかに師をもとめ、夜々剣術をまなびたるか」という見解にはなんの根拠も提示されておらず、蟠竜が新たに作り出した「俗説」であると言えます。『本朝武芸小伝』の

愚想ふに、当世の武術怪を好み、異成を尊む、古流はあしきとて、自流を建て、其師をかくし、其法を偸て妄偽をなし、愚成人をあさむき、我自得は飯篠・富田も不可及とのゝしり、邪智高慢胸中に充たるそ、実に天狗流といふへし。

という意見が蟠竜の見解から大きな影響を受けていることは明らかであり、蟠竜の俗説から生まれた新たな俗説なのです。

「義経が天狗から剣術を習った」という伝説の意味については、後で詳しく述べたいと思います。

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