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『本朝武芸小伝』における関東七流・京八流の記述について

関東七流・京八流の伝承は日本の剣術の始まりを語るものであり、剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素ですが、しかし、それが本当に実際にあったことなのか、それとも架空の作り話であるのかについて十分な検討が行われていないと私は感じています。

前回までに関東七流・京八流の開祖とされている国摩眞人・と鬼一法眼がいずれも架空の人物なのではないかということと、香取神道流において関東七流の伝承は主流のものではないのではないかということを述べました。今回は『本朝武芸小伝』における関東七流・京八流の記述のされかたについて検討したいと思います。

『本朝武芸小伝』は日夏繁高によって書かれた日本人の武術・武道関係者の最古の列伝集です。日夏繁高は丹波篠山藩の剣術師範の子として万治三年(一六六〇)に生まれ、父より天道流剣術を、堀貞則より甲州流軍学を学びました。家督をついで藩に仕えましたが、後に江戸に出ます。『本朝武芸小伝』(別名『干城小伝』)は正徳四年(一七一四)に完成し、享保元年(一七一六)に出版されました。『本朝武芸小伝』は全十巻で、兵法・諸礼・射術・馬術・刀術・槍術・砲術・小具足・柔術の九分野の流祖について詳しく述べ、中世の武術・武道の歴史を論じる際の基礎的な資料となっています。今村嘉雄氏が『日本武道体系』第一巻「剣術(一)」(同朋舎、一九八二年)の「神道流(心当流)」の解説にて

『本朝武芸小伝』巻五に「常陸鹿島の神人、其の長たる者七人、刀術を以て業と為し今に至る、関東七流と号する者是也」とあり、『早雲記』にも「鹿島は勇士を守り給ふ御神、末代とても誰か仰がざらん。然るに鹿島(香取が正しい)の住人飯篠山城守家直、兵法の修行を伝へしより以来、世上にひろまりぬ。此人中古の開山也」とある。」とある。

と述べるように、『本朝武芸小伝』は関東七流の伝承の典拠の一つとされています。また、『本朝武芸小伝』内には京八流に関する記述も見られます。そのため、『本朝武芸小伝』内の関東七流・京八流の記述を検討することで、江戸時代前期においてこれらの伝承がどのように理解されていたのかを調べてみたいと思います。なお、 『本朝武芸小伝』からの引用は、享保元年季冬元旦茨木多左衛門鷦鷯総四郎刊本を底本とする一九二〇刊大日本武徳会本に基づきます。

『本朝武芸小伝』内の京八流に関連する記事は六件あります。一つ目は巻五「刀術」序の

伊予守義経者、習刀術於鞍馬僧、顕名誉。
(伊予守義経は、刀術を鞍馬僧に習い、名誉を顕かにす。)

という記述で、源義経が鞍馬寺の僧侶から剣術を学び、源平の合戦において多大な功績を挙げたことを述べます。

二つ目は上泉信綱に関する記事です。上泉信綱は一般的に陰流その他の流派を学んだ後、独自の工夫を加えて新陰流を開いたと理解されています。しかし、巻六「神後伊豆守」では『神後伊豆守伝書』の

往昔、平清盛公剣術を好て妙を得給ふ。鞍馬僧其技を習ふ。後、判官義経鞍馬寺に在りける時、件の僧に従て其技術を学ひて伝書を得給ふ。後、義経其伝書を下鴨社に奉納す。中興上泉伊勢守諸国を修行し、京師に至り、下鴨社に参籠し、霊夢を蒙り、義経奉納の伝書を得たり。於此、上泉其神慮を給て神陰流と号すと也。

という一節を引用し、平生剣術を好んだ平清盛がその術を鞍馬僧に授け、鞍馬僧からその術を学んだ義経が剣術の伝書を下鴨社に奉納し、上泉はその伝書を得て「神陰流」を開いた、という異説が述べられています。この伝承では、鞍馬僧に剣術を授けたのは平清盛となっているものの、鞍馬僧・源義経という要素を有し、下鴨社という京都の神社を舞台としているため、京八流の伝承の派生と見なしてよいでしょう。

三つ目の記事は宮本武蔵との決闘したことで有名な吉岡氏に関するものです。『本朝武芸小伝』巻六「宮本武蔵政名」に

宮本武蔵墓誌曰、(中略)到京都、有扶桑第一兵術吉岡者、請決雌雄。
(宮本武蔵墓誌に曰く、(中略)京都に到り、扶桑第一兵術吉岡なる者有りて、雌雄を決することを請う。)

とあり、また巻六「吉岡拳法」に

吉岡者、平安城人也。達刀術。為室町家師範、謂兵法所。
(吉岡は、平安城の人なり。刀術に達す。室町家の師範と為り、兵法所と謂う。)

とあるように、吉岡氏は代々足利将軍家の兵法指南役を務め、「扶桑第一兵術」と称されていたという伝承があります。 この吉岡氏が習得していた流派について、巻六「吉岡拳法」には、

或曰、吉岡者、鬼一法眼流、而京八流之末也。京八流者、鬼一門人鞍馬僧八人矣、謂之京八流也云云。
(或ひと曰く、吉岡は、鬼一法眼流にして、京八流の末なり。京八流は、鬼一が門人鞍馬僧八人あり、之を京八流と謂なりと云々。)

と、「鬼一法眼流」であり、「京八流之末」であると述べられています。

四つ目の記事は以前紹介した鞍馬流およびそれを創始した大野将監についてです。巻六「大野将監」に

大野将監者、天正年中人也。悟刀術妙旨、号鞍馬流。今、将監鞍馬流者、是也。或曰、有小天狗鞍馬流、此判官義経之伝也。
(大野将監は、天正年中の人なり。刀術の妙旨を悟り、鞍馬流と号す。今、将監鞍馬流というは、是なり。或ひと曰く、小天狗鞍馬流というもの有り、此れ判官義経の伝なりと。)

とあり、鞍馬流が京八流に含まれると明言されていないものの、「鞍馬」という流派名から京八流に含まれると考えてよいでしょう。また小天狗鞍馬流と大野将監の鞍馬流の関係性は不明ですが、判官義経、すなわち源義経の伝であるとの言い伝えから、これも京八流に含めてよいと思われます。

五つ目の記事は 巻六「方波見備前守」の

又有荒井治部者、同北条家人也。京流達人、而実為精妙。
(又た荒井治部という者有り、同じく北条の家人なり。京流の達人にして、実に精妙たり。)

という北条家に仕えた荒井治部という人物が京流に優れていたというものであり、六つ目の記事は巻六「前原筑前守」

又、山本勘助晴幸入道道鬼達京流刀術。京流者、堀川鬼一法眼流也。
(又た、山本勘助晴幸入道道鬼京流の刀術に達す。京流は、堀川鬼一法眼流なり。)

と、武田信玄に仕えた山本勘助もまた京流を得意としていたことが述べられています。京流と京八流の関係について『本朝武芸小伝』には明言されていませんが、しかし名称が非常に似通っており、そして京流は鬼一法眼の流であると述べられていることから、やはり京流も京八流に含まれると考えてよいでしょう。

このように、『本朝武芸小伝』において京八流については具体的な複数挙げて流派名を紹介しており、その中には鞍馬流のように現代にまで継承されているものもあります。

一方で、関東七流と明言されている流派は『本朝武芸小伝』内には実は存在していません。

巻五「刀術」序では

常陸鹿島神人、為其長者七人、以刀術為業。至今号関東七流者、是也。中興飯篠、得天真正之術、大興起刀槍術。
(常陸鹿島神人、其の長者たる七人、刀術をもって業と為す。今に至りて関東七流と号すは、是なり。中興飯篠、天真正の術を得て、大いに刀槍の術を興起す。)

と、鹿島神宮の神人の中の剣術に優れた者七人がそれを生業としたと述べ、関東七流はこの七人の神人に由来すると言及しています。しかし、その神人の名前や関東七流の流派名は述べられていません。

また、序では関東七流の伝承の直後に飯篠家直が刀槍を興したことが語られ、巻五「飯篠山城守家直」には

飯篠山城守家直者、(中略)常祈鹿島・香取神宮、
(飯篠山城守家直は、(中略)常に鹿島・香取の神宮に祈り、)

とあり、香取神道流が関東七流を継承しているかのように読むこともできます。しかし、日夏は香取神道流が関東七流であると明言していない点に注意するべきであると考えます。京八流に関しては「京八流之末也」「判官義経之伝也」「京流者、堀川鬼一法眼流也」と、各流派が京八流に含まれることを一々明言しているのと比較すると、この点を無視するべきではないでしょう。なにより、鹿島の神人と飯篠家直との師承関係は全く述べられていません。

また、今日では関東七流の裔の代表とされる鹿島新当流ですが、その開祖塚原卜伝について、『本朝武芸小伝』巻五「塚原卜伝」には、

塚原卜伝者、常州塚原人也。父塚原土佐守、従飯篠長威斎、得天真正伝。而其子新左衛門、雖為継刀槍術、而不幸蚤死。於此、弟卜伝継兄之伝脈、而修行於諸州、大顕其名。
(塚原卜伝は、常州塚原の人なり。父塚原土佐守、飯篠長威斎に従い、天真正伝を得。而して其の子新左衛門、刀槍の術を継ぎたりと雖も、而して不幸にして蚤死す。此に於いて、弟卜伝兄の伝脈を継ぎて、諸州に修行し、大いに其の名を顕わす。)

とあり、塚原の流派は飯篠家直の香取神道流であると述べています。

そして、塚原が北畠具教に伝えたという「一の太刀」について、『本朝武芸小伝』は『甲陽軍鑑結要末書結要本』の

塚原卜伝と云兵法の上手勝れたる名人也。子細は此卜伝太刀の極意一つの太刀と名付る也。此太刀をつかひ出者は松本備前守也。

という一節を引用し、それが松岡備前守政信より伝わったものであると述べています。その松岡政信については巻五「有馬大和守乾信」に

松本政信者、出於飯篠長威門、為精妙。
(松本政信は、飯篠長威の門より出で、精妙を為す。)

とあり、松本も香取神道流であると述べています。

このように、『本朝武芸小伝』において塚原の流派は香取神道流であると繰り返し述べられ、関東七流には一度も言及されていません。

以上のように、『本朝武芸小伝』では剣術流派を分類する概念として関東七流・京八流という語を用いていますが、その語られ方には差が見られます。
京八流については、それが平安末の鬼一法眼・鞍馬僧そして源義経に由来するものであると指摘し、吉岡拳法・大野将監・荒井治部・山本勘助という具体的な人名を挙げ、また上泉信綱の新陰流に関する異伝として神後伊豆守の伝書に記された鞍馬僧の伝説を述べています。

これに対して、関東七流については、「剣術」の序で剣術に優れた七人の鹿嶋神宮の神人が関東七流と号したという伝説を紹介し、関東七流と香取神道流との関係性をほのめかしているものの、関東七流とは一度も明言していません。

こうした、京八流と関東七流の扱いの違いは、日夏繁高が『本朝武芸小伝』を編纂するに際して参照した書物における記述の偏りに原因があると私は考えています。次回、日夏繁高が参照した書物における関東七流・京八流の記述について検討したいと思います。

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