鬼一法眼と国摩真人について
関東七流・京八流の伝承は日本の剣術の始まりを語るものであり、剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素ですが、しかし、それが本当に実際にあったことなのか、それとも架空の作り話であるのかについて十分な検討が行われていないと私は感じています。そこで、以下に私の見解を述べたいと思います。今回は、剣術の始祖に位置づけられている人物が、歴史上実在していたのかについて述べたいと思います。(前回の記事はこちら)
伝承によると、関東七流は「鹿島神宮大行事大鹿島命」の後裔である「国摩眞人」が「武甕槌神」より「神妙剣の位」を授けられたことに始まり、後に「鹿島の太刀」として継承され、「関東七流」または「鹿島八流」が形成されたとされています。また、京八流は「鬼一法眼」という人物の流れを汲む流派とされています。そのため、関東七流・京八流の伝承に対する検証は、この伝承に登場する人物が実在したのかどうかを検証するところから始めるべきであると考えます。
まず、京八流の鬼一法眼についてですが、結論から言うと、鬼一法眼とは源平の合戦で活躍した源義経を主人公とする物語群に登場する架空のキャラクターです。鬼一法眼が登場する物語の代表は室町時代に成立した『義経記』であり、物語中義経は鬼一法眼が秘蔵する兵法書を盗み出し、義経と鬼一法眼は険悪な間柄となります。『義経記』を始めとする義経物語が広く人口に膾炙されるに伴って鬼一法眼の名も人々に知られるようになり、京八流の遣い手の一人が鬼一法眼を自派の始祖に位置づけ、それにより自派を権威づけしようとしたと考えられます。鬼一法眼のモデルになったであろう人物(個人あるいは集団)の存在は想定でき、また鬼一法眼説話の形成と京八流の成立との間に何らかの関係性はあるかもしれませんが、「鬼一法眼」という個人が歴史上実在しなかったことは確かです。鬼一法眼説話の形成と剣術の形成との関連については、後で詳しく述べたいと思います。
次に、関東七流の伝承について考えてみます。
国摩眞人に神妙剣の位を授けた武甕槌神が記紀神話に登場し鹿島神宮の主神であるタケミカヅチノミコトであることに異論はないでしょう。問題は「鹿島神宮大行事大鹿島命の後裔である国摩眞人」なる人物の正体ですが、私は、『日本書紀』等に記された中臣(藤原)氏の伝説上の祖とされる国摩大鹿島命に関する記録を元に創作されたものではないかと考えています。
養老四年(七二〇)成立の『日本書紀』巻六「垂仁天皇二十五年春二月丁巳朔甲子」の条に、
詔阿倍臣遠祖武渟川別・和珥臣遠祖彦国葺・中臣連遠祖大鹿島・物部連遠祖十千根・大伴連遠祖武日、五大夫曰、(以下略)
とあり、五人の重臣(五大夫)のひとりとして、中臣連遠祖大鹿島が見えます。『日本書紀』には「国摩」の二字がありませんが、『尊卑分脈』巻一「藤原北家本系」には「国摩大鹿島命」とあり、「大鹿島」と「国摩大鹿島命」は一般に同一人物とされています。以下、文中では表記を基本的に「大鹿島」で統一します。
『日本書紀』において大鹿島が登場するのは上引の条のみであり、詳しい事績は記されていませんが、延暦二十三年(八〇四)成立の『皇太神宮儀式帳』には、
倭姫内親王、太神を頂奉て願ひ給ふ国を求め奉る時に(中略)尓時、御送駅使阿倍武渟川別命・和珥彦国葺命・中臣大鹿島命・物部十千根命・大伴武日命、合て五柱の命等を使と為して入り坐しめき。
とあり、垂仁天皇の皇女倭姫が天照大神を祀るにふさわしい土地を探して諸国を旅した際に、大鹿島を含む五大夫が同行したと記されています。
大鹿島と倭姫との関わりは、鎌倉時代中期に成立した「神道五部書」の一つ『倭(大和)姫命世紀』にも見え、全部で三つの記事があります。
【一】時に安佐賀ノ荒悪神ノ為行を、倭姫命、中臣大鹿嶋命・伊勢大若子命・忌部玉櫛命ヲ遣しテ、天皇二奏聞ス。
【二】時に倭姫命並び二御送リノ駅使安部ノ武渟河別命・和珥ノ彦国葺命・中臣ノ国摩大鹿嶋命
【三】尓の時天皇聞し食して、即ち大鹿嶋命を祭官二定メ給ひき。
第一の記事では、倭姫命が大鹿嶋らを遣わして「安佐賀」の荒悪神の所業を天皇に奏聞したことが述べられています。第二の記事は『皇太神宮儀式帳』と同内容です。第三の記事は、天皇が大鹿島を伊勢神宮の祭官に任命したという内容です。
以上のように、平安時代以降に成立した文献において、大鹿島は伊勢神宮成立神話と関連して登場します。
なお、鎌倉時代の『倭(大和)姫命世紀』には大鹿島が伊勢神宮の祭官に任命されたとありますが、『皇太神宮儀式帳』には
尓時、太神宮禰宜氏荒木田の神主等が遠つ祖国摩大鹿島命の孫天見通命を禰宜に定て倭姫内親王朝庭に参上坐き。
とあり、大鹿島ではなく、大鹿島の孫の天見通命が禰宜に任じられたとあります。同様に、平安時代末に成立した『太神宮諸雑事記』第一「垂仁天皇」にも、
神代祝大中臣遠祖天児屋根命神禰宜荒木田遠祖天見通命神也。
とあり、天見通命を初代の禰宜としています。もしかすると、鎌倉時代に大鹿島を伊勢神宮の初代神官に位置づけようとする動きがあったのかもしれません。
さて、以上が近畿地方で形成された大鹿島に関する伝承であり、大鹿島は中臣氏(藤原氏)の祖として知られ、また伊勢神宮の成立に関わる人物として資料上に登場します。この大鹿島と鹿島神宮との関わりについて、鹿島新当流の宗家である吉川家の系譜には「天児屋根命から十代嫡流に国摩大鹿島命があり、国摩大鹿島命は伊勢鹿島両宮神祇伯祭主となり、その子雷大臣命が鹿島に土着して吉川家の始祖となり、その四世の孫が国摩真人である」という伝承が記されているようです。
確かに、藤原氏の氏神である春日大社は白い鹿に乗って鹿島神宮からやって来たという伝説もあり、また『常陸国風土記』香島郡条には香嶋郡条には大鹿島の先祖である神聞勝や、大鹿島の子の臣狭山が登場するため、近畿の中臣(藤原)氏と鹿島の中臣氏の間に一定の繋がりがあったことは想像に難くありません。
しかしながら、吉川家の伝承は他の資料とは符合しない点が多くあります。
まず、吉川家の伝承では大鹿島は「鹿島神宮大行事」または「伊勢鹿島両宮神祇伯祭主」という職に就いていたとあります。しかし、上述のように、大鹿島が伊勢神宮の神官になった伝承は平安時代の資料には見えず、鎌倉時代以降に作られた伝承である可能性があります。鹿島神宮の神官になったことを記す資料が無いことはいうまでもありません。
さらに言うと、延長五年(九二七)成立の『延喜式』に記された鹿島神宮の神官は、宮司・禰宜・祝・物忌(巻十五「内蔵」鹿島社)だけであり、「大行事」という神官名は見えません。なぜならば、「大行事」は鎌倉時代以後鹿島氏によって世襲された職であり、平安時代以前には存在しないからです。
また、吉川家の伝承では、大鹿島の子の雷大臣命が鹿島に土着したとありますが、雷大臣は正しくは臣狭山の子であり、大鹿島の孫に当たります。雷大臣は『日本書紀』には「中臣烏賊津」として巻八「仲哀天皇九年春二月癸卯朔丁未」「皇后詔大臣及中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連曰」や、巻九「神功皇后三月壬申朔」「喚中臣烏賊津使主為審神者」等と見えます。「烏賊津使主」は「いかつおみ」と読むため、後に「雷」の字が宛てられるようになり、弘仁六年(八一五)年に成立した『新撰姓氏録』の「左京神別」には「中臣志斐連、天児屋命十一世孫雷大臣命男弟子之後也」とあります。『日本書紀』の記事には雷大臣は近畿で活動したと記されており、その子孫とされる氏族の多くも近畿に居住しており、その一人が藤原氏の始祖である中臣鎌足です。そのため、雷大臣が鹿島に土着したという吉川家の伝承は、『日本書紀』や『新撰姓氏録』の記述と矛盾していると言えます。
以上、吉川家の伝承と各種資料の相違点を述べましたが、これらのことから推測するに、「鹿島神宮大行事大鹿島命」の後裔である「国摩眞人」が「武甕槌神」より「神妙剣の位」を授けられたという伝承は、鎌倉時代以降に鹿島神宮に仕える中臣氏の創作である可能性が高いのではないでしょうか。