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香取神道流は関東七流に含まれるのか

関東七流・京八流の伝承は日本の剣術の始まりを語るものであり、剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素ですが、しかし、それが本当に実際にあったことなのか、それとも架空の作り話であるのかについて十分な検討が行われていないと私は感じています。前回は関東七流・京八流の開祖とされている国摩眞人・と鬼一法眼が歴史上実在した人物なのか、という点について検討し、いずれも架空の人物なのではないかという意見を述べました。今回は、香取神道流と関東七流の関係性について考えてみたいと思います。

日本古武道協会official siteの鹿島新當流の頁に、

「兵法は東国から」といわれているが、この東国とは鹿島・香取の地を指すものであり、日本の武道発祥地として鹿島は古い歴史と道統を有している。今から千五百七十余年前、鹿島神宮大行事大鹿島命の後裔国摩眞人が鹿島神宮境内の高天原に神壇を築き、祈願熱祷を捧げて神託を受け、武甕槌神の神剣「韴霊剣」の法則である神妙剣の位を授かり、以後「鹿島の太刀」と称して大行事座主職卜部吉川家を中心に継承されていた。のち、「鹿島の太刀」は上古流・中古流と発展的に呼称され、また「京八流」に対し、俗に「関東七流」あるいは「鹿島七流」といわれるほど東国武術の代表的存在であった。

とあり、令和3年現在において鹿島新当流は関東七流の範疇に含まれると広く認識されています。
しかし、香取神道流については鹿島新当流とは事情が異なるように思われます。今村嘉雄氏の『日本武道体系』第一巻「剣術(一)」(同朋舎、一九八二年)の「神道流(心当流)」の解説には、

詳しく云えば「天真正伝香取神道流」、略して云えば「天真正伝神道流」「香取神道流」「神道流」、塚原卜伝は「心当流」と称した。神道流の祖は、香取の人、飯篠山城守(後伊賀守)家直とされているが、この流儀は卒然として成立したものではない。『本朝武芸小伝』巻五に「常陸鹿島の神人、其の長たる者七人、刀術を以て業と為し今に至る、関東七流と号する者是也」とあり、『早雲記』にも「鹿島は勇士を守り給ふ御神、末代とても誰か仰がざらん。然るに鹿島(香取が正しい)の住人飯篠山城守家直、兵法の修行を伝へしより以来、世上にひろまりぬ。此人中古の開山也」とある。」とある。もちろん、これらの記述には伝説的要素が多いが、武術は、戦場経験や武器の発達とともに古代から徐々に発達してきたものであることは否めない。ただ鹿島、香取が武神を祭る社として、武家、武芸者の信仰の対象となり、両社に武運や武技を祈請、開眼するものも多かったであろうし、両社の祝部(神仕えする神人)たちが、社頭、社域を守護するために練武を怠らなかったことは事実であり、彼らを中心に武芸が流儀化していったことも当然の成りゆきであった。

とあり、『本朝武芸小伝』や『早雲記』という書物の記述に基づき、香取神道流も関東七流の伝統を受け継ぐ流派であると述べ、関東七流が形成された背景として、香取・鹿島両社が武神を祭り武家・武芸者の信仰の対象となったこと、社頭・社域を守るために神人が練武を行ったことを挙げています。
しかし、日本古武道協会official siteの香取神道流の頁には、

日本武道の源流「天真正伝香取神道流」は飯篠長威斎家直を流祖として、下総の国香取の地に伝承する武道である。家直公は六十余歳にして香取大神に壱千日の大願をたて斉戒沐浴、兵法に励み百錬千鍛を重ね粉骨の修行の後、香取大神より神書一巻を授けられたと伝えられ、その後、連綿と続き、現在宗家二十代目飯篠快貞に至っている。

とあり、飯篠家直が香取大神より神書一巻を授けられたことで流派が開かれたことが述べられていますが、関東七流との関係性については言及されていません。果たして香取神道流を関東七流に含めて良いのでしょうか。

この問題を考えるために、『日本武道体系』所収の香取神道流の伝書に流派の歴史がどのように書かれているのか調べてみたいと思います。

一つ目の伝書は、香取神道流第六代(第七代とする系図もあります)で天正(一五七三~一五九二)頃の人である飯篠盛繁が書いた『新当流兵法書』です。

世間爰中此(頃)、若狭国住人、飯篠長威、奥山自(慈)恩兵法秘術伝。仍旡(無)実法、当社之御神前、久奉参籠。了百日寅一点詣。然曰、天真正、我胸剣術秘。汝深々感懇志。応安二年五月五日、同乃一点以御神秘術、授与彼長威公。(世間爰に中頃、若狭の国の住人、飯篠長威、奥山自(慈)恩の兵法秘術を伝う。実法無きに仍て、当社の御神前に於いて、久しく参籠し奉る。百日を了りて寅の一点に詣ず。然るに曰く、天真正は、我が胸の剣術の秘なり。汝が深々の懇志を感ずと。応安二年五月五日、同(寅)の一点に御神の秘術を以て、彼の長威公に授与す。)

まず、本伝書では、飯篠家直は若狭国の人とされ、香取神道流を創始する以前に念阿弥慈恩の念流を習っていたと述べられています。飯篠家直が念流を学んだのかどうかについては、後で詳しく検討したいと思います。今村嘉雄氏の注によると、「香取文書纂」所収の飯篠系図に、第二代(または第三代)盛近・第三代(または第四代)盛信が「若狭守」と称したことが記されているらしく、本伝書の飯篠家直を若狭国の人とする記述はそれと関連があるのでしょうか。

次に、本伝書では飯篠家直が香取社に百日間参籠し、応安二年(一三六九)五月五日の寅の刻に「天真正」という謎の存在より「御神の秘術」が授けられたことが述べられます。「天真正」について詳しい説明はありませんが、本伝書にはまた「香取経津主之御尊、平治葦原六天魔王給秘術之巻物幷口伝(香取経津主の御尊、葦原の六天魔王を平治し給う秘術の巻物幷びに口伝)」とあるため、「御神秘術」が香取社に祀られている経津主命に由来すると考えられていたことが分かります。「天真正、我胸剣術秘。汝深々感懇志。」という一節は、大日本武徳会武道専門学校の最後の校長鈴鹿登が筆写してまとめた『新当流兵法書』所収の『新当流手継の序次第』( 『日本武道体系』第一巻「剣術(一)」『新当流兵法書』)にも、「故天真曰、秘我胸剣術、感汝甚深懇志、授此妙術。(故に天真曰く、我が胸に剣術を秘し、汝の甚深の懇志を感じ、此の妙術を授く。)」として見えます。

応安とは南北朝時代の北朝で用いられた年号であり、西暦一三六八年から一三七五年までです。飯篠家直は一般的に元中四年(一三八七)に生まれたとされているため(『日本武道体系』第一巻「剣術(一)」飯篠伊賀守家直)、本伝書の応安二年という年号は誤りでしょう。

以上のように、本伝書では飯篠家直が念流を学んでいた可能性、香取社に参籠し、経津主命に由来する秘術を天真正より授けられたことが語られていますが、関東七流については言及がありません。

二つ目の伝書は、明治三十二年(一八九九)七月の年記を有する『天真正伝香取神刀流兵法』です。本伝書中の「表裏(裡)目録之巻」で飯篠家直が香取神道流を創始した経緯を次のように述べています。

上古の者、深浅の二種を以て平法の要を得と欲す。故に先祖、飯篠伊賀守大岳(大覚)入道長威斎、当社香取大神に歩を運ぶこと一千日、参満つるに到りて、天地陰陽の二神、中央に天降り座す。天真正、則ち神変童子の尊形にて、長威斎に向はせ給ふ。汝、当社に参籠一千日、大望成就する有り。是に来れと。梅の古木の上にて剣書一巻を授与し給ふが故に、今にその妙術を行う。

『天真正伝香取神刀流兵法』では、飯篠家直が香取神宮で一千日の参籠を行った結果、天地陰陽の二神が天降り、天真正が神変童子の尊形を示現し、家直に剣書一巻を授与したことが語られています。「神変」とは、人間の知恵でははかり知ることのできない不思議な変化、神の不思議な力、また、そのような不思議な力を持つさまを形容する言葉です。このように、本伝書では、飯篠家直が香取の神から剣術を授けられたことが明記されていますが、一方で飯篠家直と彼以前の剣術家との関係性は語られておらず、関東七流に関する伝承も登場しません。

以上、数は少ないですが、香取神道流の伝書において関東七流がどのように語られているか確認してみました。その結果、今回取り上げた伝書中では関東七流に全く言及されていないことが分かりました。『日本武道体系』には今回取り上げた伝書以外にもいくつか香取神道流の伝書が収録されていますが、私が調べた限りでは、それらにも関東七流に関する言及はありませんでした。この事実に基づくと、香取神道流は関東七流には含まれないと言わざるを得ません。

もちろん、『日本武道体系』に収録されている伝書は現存する伝書の極一部であり、また過去に失われた伝書も多くあったでしょう。そして、それらの伝書中で関東七流に言及されている可能性は十分に考えられます。しかし、香取神道流の公式サイト等でも言及されていないことを踏まえると、香取神道流において関東七流の伝承は主流のものではないのではないかと想像されます。

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