いじめっ人のあなたへ
昔、自動車教習所の授業で、印象に残ったエピソードがある。30年以上経っても覚えてる。それは高速道路の走り方の授業で、講師の先生曰く「対向車線に、向こうから大型トラックが来たとしますね。まだひよっこドライバーのあなたは、恐怖を感じるはずです。そんな時はハンドルをしっかり握りましょう。人間は、こわいこわいと思ってるのに、その対象に近づいてしまう習性があります。右にハンドルを切らないように、しっかりハンドルをまっすぐに保ちましょう。」
そんなばかな、怖いなら避けようと左にハンドルきるんじゃないの・・・と思ったけど、免許取得後、そうかもなあーと思うこともあった。運転中、特に長距離運転や、高速道路のように、障害物などなくて単調な運転が続くと、人は無意識に操作してる瞬間がある。後で思い出せない。気がつけば、対向車線につつつ・・・おっと、こわいこわい。
無意識ーとよく似てるのが、「思考停止状態」こんな時には、人の本能とか欲望とか潜在意識に潜む黒々とした感情が出やすくなる。
誰かをいじめる、あざわらう、差別する、中傷する、誰かに嫌がらせをする、嫉妬する、誰かの悪口を言う、おとしめるための嘘の噂を言いふらす、これら黒々とした感情は、ほっとくと、そのまんま行動に結びつく。ノータイム。これはマズイんだ。普通に社会生活をおくるためには、「抑える」必要がある。何で抑えるかというと「理性で」抑える。本能的な行動は、感情が湧いたら、ノータイムで次の行動に直結するけど、理性的な行動は、一度頭で「考えて」というワンクッションが入る。かっとなった時に、深呼吸しろというのは、このワンクッションを入れるため。この深呼吸ができない人のことを、昔の人は「短腹~たんぱら」って呼んだ。深呼吸じゃなくて、へその下の丹田で、ぐっとふんばれっってことかもしれない。
人間が本能のまま生きていたら、いろいろと厄介なことが起きる。だから、小さい頃から、自分の本能や感情や行動をコントロールすることを教えられる。時には「我慢」だし、あるいは「やり過ごす」ことだし、何か違うことをして「紛らわす」そのうち、現れた黒々とした衝動は消える。衝動に振り回されずにすむ方法があることを、子供は学ぶ。これは、生まれながらに持っているんじゃなくて、しつけられる、周りの大人を見て覚える、あるいは教えてもらう。ひとりでに身につくもんじゃない。
学校で誰かをいじめていた「いじめっ子」、そのまんま大人になって、ネットで悪口を書き散らしたり、時には「正義の鉄槌」を振り下ろす気分で、実は誹謗中傷に過ぎないことをSNSなどに書き込む「いじめっ人」のあなたは、きっと、「黒々とした感情はコントロールで抑え込める」ことを知らずに(教えられずに)今までの人生を歩んできたに違いない。黒い衝動を正当化する、へんな論理も身に着けちゃったかもしれない。親や先生に、衝動を抑えることを教えてもらえず、尊敬できる年長者の話をきく機会もなくて、大人になっても気づけない、学べないが、現在進行形。
(子供の数も少なくて、兄弟間で人と人との距離感を学べず、両親祖父母にちやほや甘やかされて、嫌なことを我慢する「意味」も知らずに育った、今どきの若者~国民皆が貧しかったころは、こういう子供は「お金持ちのぼんぼん」に多かった。頭はいいのに、わがままーみたいな。今は総中流を通り越して「皆金持ちのお嬢様とぼんぼん」社会になっちゃったんだ、きっと)
「いじめてしまう」行動をとるあなたは、自分では悪いことをしている気はない。ただ単に衝動を抑える術を「知らないだけ」なんだと思う。いじめていた相手が自ら命を絶っちゃっても、自分だけの責任じゃないよなあ~って思ってんのかな。
「だって、あいつを見ると、言ってることをきくと、むかつくんだもん」
人間同士には相性ってものがある。誰とでも仲良くできるなんてことはナイ。「みんな仲良く」は、春の〇〇キャンペーンみたいなもんで、単なるスローガンだ。相性の合わないってのは、しょうがないことだし、誰にでもある。この感情自体は抑えられないけど、そこで行動するのは抑えられる。
じゃ、仲良くできそうもない、声をきくだけで「むかつく」相手がいたらどうするか~「離れる」・・・ソーシャルディスタンスよりも、もうちょっと遠くにね(声が聞こえない、相手の存在感を感じなくなる距離ね)
離れればいいのに、なぜ、人間はわざわざ相手の顔をのぞきこんで、悪口を言うような行動を取るんだろう。相性が合わない相手なんだよ、嫌な思いはしょうがないのさ、離れればいいのに。大型トラックに向かってハンドルをきっちゃうんだね。そういう時は「しっかりハンドルを握る」・・・あなたの場合は「むかついたら、相手から離れる方にハンドルを切る」
これは「いじめは悪いことです、しないようにしましょう」というスローガンとはちょっと違う。いじめたい衝動を抑えることは、いじめっ人のあなたにとって「よいこと」だから。あなたの行動を周囲は見ている。その人たちに良い感情を抱かれることはない。あれだけ周りの空気を読もうとする現代人が、なぜその空気は読まないんだろう。
個室で、匿名で、SNSに書き込む。うん、周りに人はいない。でも「神様は見ている」日本人はこの感覚がないから・・・と言われるけど、「神様が見ている」欧米の国々で、人種差別がなくなってないんだから、神様の権威もちょっと落ちたんだね。いや、日本では「お天道様(おてんとさま)がみている」んだった。太陽の権威はまだまだ健在だ。昔の人はえらい。
昔の人が、こう言って、黒い衝動をコントロールしようとしたのは、別に清廉潔白でいろというんじゃなくて、そういう衝動的な振る舞いは、めぐりめぐって、自分にハネ返ることを知っていたから。「知恵」なんだと思う。「罰(バチ)が当たる」んです、はい、これはけっこうな確率で当たる。
だって、他人をいじめてストレス発散しなきゃならないなんて、その時点で不幸せでしょう。そんなことを続けてて、将来幸せになれるとは思えない。でも、今この瞬間の「気晴らし」しか考えられないのは「思考停止」にほかならない。思考が停止してるから、むかつく相手にわざわざ近づくんだな、きっと。
SNSの誹謗中傷だって、嫌ならその相手の発言とかを読まなきゃいいのにーってこと。何をしてるか行動もチェックしなきゃいいのに。でも、こういう誹謗中傷って中毒性があるし、刺激が大きい分、ほかで紛らわせることも難しいのかも。
だから、たまたま、この文章を読んで「へん」って思ったとしても、頭のすみにちょっと置いといてもらって、ふと、頭の中、心の中がからっぽになった瞬間に、ぷくーって思い出してもらえるといいなと思う。
他人を攻撃して得られる「満足感」はニセモノ。ニセモノだから、もっともっと刺激の強いものが欲しくなる。これ、麻薬とおんなじ。こんなこと続けてたら「人間やめますか」になります。
私は、田舎育ちで、小中学校は、ずーっとひとクラス30人弱でした。そうなると兄弟みたいなものだけど、面子が変わらないという意味では、いじめられっ子にはつらいものがある。昔とて、いじめっ子、いじめられっ子はいた。30人しかいないけど、なんとなく皆に避けられる子がいた。女子は、数人が友達だったし、せいぜい避けるくらいだったけど、男子は容赦なかった。子供のイタズラをがんがんやってた。やってる方はイタズラでも、やられてる方は嫌だったと思う。いじめられてたSちゃんは、たしか、お家が当時の新興宗教の会館がわりで、他の子供は大人の会話を聞いて「あのうちの子には近づかない方がいいのかも」って思ってたんだと思う。田舎の小学生はストレスが少なかったから、目に余るいじめはなかったけど、数十年後のクラス会の宴会の片隅で、そのいじめられっ子のSちゃんに、泣いて謝ってるヤツがいた。いじめっ子の先鋒だったK君だ。いい加減に酔っぱらっていたけど「ごめんな、ごめんな」って。Sちゃんは幸せな家庭を築いて、なかなかの奥様っぷりだったけど、泣きながら「ううん、いいってば、気にしないで」って言ってた。K君、ずーっと気にしてたんだなあ。心の隅にいつも引っかかってたんだろう。謝る機会があってヨカッタ。少しは幸せ回復したかな。
あなたも、幸せになりたいでしょ?
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