第1章 - 再会と土壌の秘密
東京駅の喧騒がアイリを包み込む。
久しぶりに戻ってきたこの街は、田舎の静寂とは対照的だった。人々は忙しそうに行き交い、周囲にはカフェやコンビニ、飲食店が立ち並んでいる。ここでは自然の匂いはほとんど感じられない。
「カズヒコさん、今もあの研究室にいるかな……」
アイリは、スマホで保存していた彼の名刺を見ながら、大学の研究施設へと足を向けた。かつて食品開発のために訪れたとき、カズヒコは熱心に「土の力」について語っていた。その情熱的な姿は、当時の彼女には少し奇妙に思えたが、今では頼れる存在に感じられる。
大学の研究棟に着くと、受付の職員にカズヒコの所在を尋ねた。少し待つと、後ろから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「おや、これはこれは……アイリさんじゃないですか!」
振り返ると、白衣を着たカズヒコが笑顔で立っていた。少し無造作な髪型と、厚いレンズの眼鏡。以前と変わらない彼の姿に、アイリはほっとした。
「久しぶりです。突然お邪魔してすみません。でも、どうしても相談したいことがあって……」
アイリが話すと、カズヒコは興味津々といった表情で彼女を研究室に案内した。
カズヒコの研究室は、小さな植物の鉢や土壌サンプルで埋め尽くされていた。壁には土壌微生物の写真や、化学構造式の図が貼られている。
「で、何か土壌について悩んでるって聞きましたよ?」
カズヒコは手早く机を片付けると、彼女に椅子を勧めた。
アイリは、祖母の畑の現状と、自分がそれを再生させたいと考えていることを熱心に語った。祖母の日記を見せながら、薬膳と土壌の関係についても触れた。
「なるほど……土壌が生命力を失うと、薬膳の効果も薄れるって考え方ですか。面白いですね。でも、荒れた土壌を再生するのは簡単なことじゃないですよ。特に化学物質や重金属で汚染されてる場合、長い年月が必要になるでしょうね。」
カズヒコは腕を組み、少し考え込んだ後、棚から古いファイルを取り出した。それは、カズヒコがかつて取り組んでいた「微生物による土壌再生」の研究資料だった。
「これを見てください。土壌中の微生物には、汚染物質を分解してくれるものがいるんです。菌類やバクテリアの一部が、化学肥料の残留物や有害物質を自然な形に戻す役割を果たしてくれます。ただし、こうした微生物は生きるために特定の条件が必要なんです。適切な湿度、温度、そして彼らの『エサ』になる有機物も、ですね。」
アイリはその資料に目を通しながら、希望を見出したような気がした。
「つまり、その微生物を祖母の畑に導入すれば、再生できる可能性があるってことですよね?」
カズヒコは頷いたが、すぐに真剣な顔つきになった。
「ただし、問題があるんですよ。こうした微生物を広範囲で活用するには、多額の資金と設備が必要なんです。それに、現地の土壌がどれだけ劣化しているかによって、計画の難易度も変わる。まずはサンプルを採取して、分析してみるのが第一歩ですかね。」
その日の午後、アイリとカズヒコは祖母の畑に向かうための準備を進めた。採取用の器具や試薬、必要な機材を車に積み込み、翌朝早く出発する計画を立てた。
夜、アイリはカズヒコの研究室で眠れないまま考え続けていた。
土の中には無数の生命が眠っている。目には見えないが、彼らの力が再び土に命を吹き込む姿を想像するだけで、胸が高鳴った。
「祖母が言っていた『土の声』……私にも聞けるようになるかもしれない」
そう思いながら、アイリは静かに目を閉じた。翌日から始まる新たな挑戦のために、しっかりとエネルギーを蓄える必要があった。