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【短編小説】末っ娘アニー

 アニーには両親が居なかった。

 しかしそれは彼女が愛を知らずに育ったという意味ではない。その逆で、人類の歴史を通してアニーほど愛された女の子はいなかった。

 アニーが生まれた日、世界中から500万通を超えるお祝いが届いた。その中には世界大統領やローマ教皇からの直筆の手紙も含まれていた。 
 アニーの誕生は全世界でトップニュースになったし、貰った洋服は毎日100回着替えたとしてもその全てを着ることはできないほどだった。

 昔から末っ子というのは皆に可愛がられるものだ。そしてアニーは人類の末娘だった。

 4歳の時、アニーは家庭教師にその意味を尋ねた。
「"じんるいのすえむすめ"って、なに?」
「アニーはみんなの妹ってことよ」
 エウロパ大学を史上最年少で卒業した才女が答えた。
「アニーはダーシャの妹なの?」
「そうよ、アニーは私の妹、ケンやダニー、エカテの妹なんだよ」
「アニーも妹がほしい!」
「アニー、アニー、それは無理なの」
「なんで?」
「だってアニーは末っ子だもん」
「よくわかんない」

 6歳になるとアニーは学校に入った。というより、アニーのための学校が建てられた。教えるのは世界の名だたる学者たちで、科目は「言語学」、「人類史」と「文化史」の3つしかなかった。

 12になる頃には、アニーは主要16ヵ国語を流暢に話し、あらゆるジャンルの文学や音楽、絵画、演劇に並々ならぬ造詣を持っていた。

 この頃になるとアニーは多くのことを理解していた。太陽がまもなく死を迎えること、人類が一縷の望みを託して星々の彼方へ種子を蒔いたこと。その1000年続いた大移民時代も終わり、いまなお太陽系に残ることを選んだ人々が、来るべき終焉の苦しみを子孫たちに味わせないため、全太陽系の出産装置の停止に合意したことを知った。

「地球に行ってみたい」
 ある日アニーは文化史の先生に言った。
「授業用のホロドームで好きな時間と場所に行けるじゃないか」
「バーチャルじゃなくて、本当の地球に行きたいんだってば」
「それは無理だ。僕らが持ってる最高の耐熱服でも5分と居られないよ」
 教師は苦笑いした。
「ここよりもずっと太陽に近いからね」

 アニーたちが住んでいるのは木星の衛星エウロパ、その海の中に浮かぶ都市の中だ。かつては氷に閉ざされていた死の海も今となっては過ごしやすくなっており、地球から連れて来られ魚類や水棲哺乳類たちの最後の楽園になっていた。
 この海もあと1000年もしないうちにすっかり蒸発してなくなると、アニーは授業でそう習った。

 15歳の誕生日を迎える前にアニーは世界一のお金持ちになっていた。その記録がこの先破られないこともまた保証されていた。なぜなら、既に1000万人分の遺産を手にし、この先3億人以上の相続人に指定されている女の子はアニーの前には存在せず、後にもきっと居ないからだ。

 アニーが相続したのはお金だけではなかった。その中には2万社の企業、100万軒の家、数えきれないほどのロボットたちが含まれていた。
 いくら天才のアニーでも2万社を経営することは到底できなかったが、問題はなかった。アニーが生まれるずっと前から、社会はロボットたちによって支えられていたからだ。人口がいくら減っても食料はこれまで通り生産されたし、各種サービスも滞りなく運営されていた。
『我々は現状維持を正とするように設計されています。リスクをとって企業を成長させることはできません』
 というのが彼らの口癖だったが、そもそも「経済成長」という言葉自体がとうの昔に死語になっていた。

 18歳になったアニーの美しさと言ったら、歴史上の名だたる詩人たちが持ち合わせの表現力を最後の一滴まで絞り出しても描写することはできないだろう。それもそのはずで、アニーは遺伝子工学の集大成にして、人類の最後にして最高の傑作だからだ。

 その年アニーは初恋をした。相手は120歳上の女性だった。一年の交際期間を経て、二人は結婚した。25年間の幸せな結婚生活は、最終的にはパートナーの死を持って幕を下ろした。次の年、アニーは初めての再生処置を受け、18歳の姿を取り戻した。

 その頃には、人類の総人口は既にアニーが生まれた年の1割以下になっていた。

 ある日、アニーは人類最後の作家に会うため都市第4層にある美しい人工湖へ向かった。湖を望む小高いの丘の上にその家は立っていた。
「よく来たね」
 老人は安楽椅子に座ったまま、顔だけをこちらに向けた。
「このままで失礼するよ。もう立ち上がる元気もないのでね」
「まだ執筆はしてるのね」
 アニーは無造作に放り出されているシンクロナイザーを眺めた。モニタ上に書きかけの原稿が映し出されている。
「これで最後にするさ」
 老人は湖のほうに向き直った。
「私の処女作はね、全世界で100万部売れたんだ。君の生まれるずっと前の話だけどね。最新作の売上は何部だと思う?」
「956部よ。私が自腹で買った1冊も含めて」
「そういえばあの出版社は君の会社だったね」
「この人口で1000部売れれば大したものだわ、でも次は500部行かないかも。それでも書き続けるってどんな気持ち?」
「意外と良いものだ。なにしろ口うるさい評論家も居ないしな」
「うーん、よく分からないかな」
「そのうち分かる」
 老人は夕日に目を細めた。

 やがて老人は死んだ。
 彼の希望により遺作は死後に出版されたが、85部しか売れなかった。
「掛け値無しの最高傑作。でも長生きしすぎたね。その前に読者が死んでしまったのだもの」
 それがアニーの下した書評だった。

 その後の1世紀、アニーはほとんどの時間を図書館とホロドームに籠もって過ごし、外に出るのは知り合いの結婚式か葬式くらいだった。もちろん、後者の方が圧倒的に多かった。

 アニーを知る最後の人間が亡くなった翌日、参列者一名の葬式を終えた足で、アニーは再生処置センターへと向かった。

『5度目以降の再生処置は法律で禁止されています』
 受付ロボットが言った。
「でも誰が私を罰するの?」
『確かにそうですね』
 人類最後の裁判官は10年以上前に亡くなっている。
『法的な問題はクリアしました。しかし装置のシステムがブロックしています』
「だったら設定を変えさせなさい。この会社の株式は私は100%所持してるのよ。というかあらゆる会社のだけど」

 若さを取り戻しアニーが次にしたことは、もっとも優秀なロボットたちを集めることだった。
 アニーはロボットたちに命じて、エウロパの海に浮かぶ古代ギリシャ様式の神殿を作らせた。それはかつて地球にあったアテネと呼ばれた都市、その丘にあった物の1万倍大のコピーだった。

 神殿には、人類が遺したありとあらゆる創作物が収められた。

 太陽系に残っていたほとんどの彫刻や名建築、絵画などが神殿に安置された。もちろんそれらは今や全てアニーの所有物だったが、ロボットに所在を探し出させるのにかなり苦労した。
 すでに失われてしまっていたものは、記録を元にできるだけ忠実に再現された。
 神殿の中には100mおきに自動演奏装置《オートハーモ》が置かれ、重厚なクラシックから軽快なポップ、小惑星共和国時代に流行したネオ・滾奉楽に至るまで、人類の生み出したありとあらゆる音色が常時奏でられていた。

『こんな物を作る意味があるのでしょうか』
 秘書ロボットが言った。
『もう誰も見る人がいないのに』
「なんでそう思うの?」
『創作とは、他人に価値を提供することの見返りとして、社会における自身の存在意義を広く認めさせる行為ですから、価値を知る相手がいなければ無意味です。呂氏春秋に"知音"という故事があるようにこれは人類にとって古代から―』
「私は創作物ってお墓だと思ってるの」
 アニーはロボットの言葉を遮った。
『お墓、ですか?』
「その人がかつて生きていた証、と言えばいいのかな。でもそれって要するにお墓でしょ?」
『私たちは人類の墓を建てていると』
「そういうこと」

※※※
 太陽系から4光年の彼方、灰色の惑星の軌道上に浮かぶ1隻の宇宙船の中で。

「システムオールグリーン、目的地はエウロパで変わりありませんか?」
 航海士が船長に向かって最終確認を取っている。
「8年前に送った例のメッセージですが、応答はなかったそうです」
 船長は大きく頷く。
「信じるしかあるまい。科学者によれば、エウロパに生存者がいる確率が一番高いそうだ」
「きっと居ますよ」

 彼らは移民時代の最初期に送り出された者たちの末裔であり、老いたる太陽系に残された人々を新天地に助け出すという崇高なミッションの志願者たちだった。
「総員に冷凍睡眠の指示を。200年の良い夢を、とな」
「アイアイサー」
※※※

 結局、ロボットたちを総動員しても神殿が完成するまで150年もの歳月がかかった。その間にアニーはさらに2度の再生処置を受けた。

「なんとか間に合ったけど、もう限界ね」
 アニーは丘の上から人工湖を眺めながら、誰にともなく呟いた。
『見に行かないのですか?』
 介護ロボットが尋ねる。あちこちに錆が浮いているが、アニーはそのままにさせていた。
「分かってないわね。人間というのは自分の墓を見たりはしないものよ」
 老婆は安楽椅子にもたれかかったまま言った。
「それにもう立ち上がる元気も、再生処置を受ける体力もないわ」

 沈んでいく夕日の、その最後の輝きが湖面をゆっくりと黄金色に照らし出した。



本作品は、2023年9月にカクヨムに投稿した同名の小説を転記、加筆修正したものです。


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