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ファンタジーとSFの定義、なろうと星新一と宝石の国、そしてスターウォーズ新三部作の約束された失敗について
機動戦士Gundam GQuuuuuuXが上映された後、Xのタイムラインがまたたく間にガンダムの話題で埋め尽くされた体験をしたのは筆者だけではないはずだ。
そのお祭り騒ぎの最中に「ラグランジュポイント論争」なるプチ炎上(あまりにも下らないので知りたい人は自分で調べて欲しい)が発生し、それに反応して「最近の若ぇ衆はファンタジーばかりでSFなんか読まんけえのぉ」というSFおじさんたちのボヤキが雨上がりのカエルの大合唱のようにそこかしこから聞こえてきた。
この国ではSFが市民権を失って久しい。
そして「何故SFは衰退したのか」についても既に散々論じられて来たのだけど、あえて筆者はここで今一度「なぜSFは衰退したか? というかそもそもSFとファンタジーの違いは何か?」について私見を述べたいと思う。
注:以下に書くことは全て筆者の個人的な見解であり、研究やデータに基づくものではありません
・ファンタジーとSFの国境
ファンタジーとSFはどちらも「現実に存在しない世界」を舞台とした創作ジャンルで、創作界におけるお隣さんと言ってもいい。
そのため、両者の国境というのはカシミール地方並にあやふやで、10人居れば10通りの定義がある。
一番シンプルな線引きはこうだ。
「未来や科学技術の要素があればSF」
これはSFの黎明期においては的を射ていたのかもしれないが、作品が多様化した今となってはさすがに乱暴すぎるようだ。
そこで、筆者が作品を分類するときに使っている定義を紹介したい。
ファンタジーは「世界を媒体に語られる物語」
SFは「物語を媒体に語られる世界」
もっと平たい言い方をすれば、
「もしこういう不思議な世界があったら、どんな事が起きるのだろう?」がファンタジーで、「こんな事が起きるのって、一体どんな世界なんだろう」がSFだと、作者は考えている。
これに気付いたのは自分で小説を書くようになったからだ。
筆者は文才という奴を持たずして生まれた悲しきモンスターだが、まぁ無いなら無いなりにと下手の横好きでカクヨムに何作か小説を投稿している。
小説は無から突然現れたりはしないので、何はともあれまず「とっかかり」という奴が要る。
筆者の場合、ファンタジーならまず幻想の世界を作ってそこから想像力で物語を膨らませていく。一方、SFを書く時は最初にキャッチーな設定や出来事を据えてから、「何故これが起きるの?」と世界観の方を掘り下げに行くというように、無意識に考え方を変えていたのだ。
・魔女宅とナウシカ
これだけでは個人の作風の話で終わってしまうので、もう少し客観的な事例を探してみる。
ジブリ作品で考えてみよう(何でもかんでもジブリを引き合いに出すのは某オタク王みたいで余り気が進まないのだけど、誰もが知っている複数ジャンルにまたがった作品群なので都合が良い)
魔女の宅急便、これがファンタジー作品であるのは議論の余地がない。魔女宅は魔法や空飛ぶ箒がさも当然のように存在する世界の話だが、その理由や背景について作中で掘り下げられる様子はない。物語の焦点はもっぱらキキという女の子の出会いと成長に当てられている。この場合不思議な世界は物語を語る上での舞台背景に過ぎない。
逆にジブリSF作品の代表格と言えばそう、風の谷のナウシカだ。この作品にも非常に魅力的な主人公がいるが、キキと違ってナウシカは初登場時から完成されたキャラクターだ。そして作品の主眼は彼女の冒険を通して世界の真実 ——腐海は何のために存在し、王蟲とは一体なんなのか―― を描くことに置かれている。これは典型的な「物語を媒体に語られる世界」の例だろう。
・なろう小説と星新一
もう少し考えてみよう。
この<物語-世界>理論を極限まで煮詰めると何が起きるか?
「ファンタジーの本質が物語なら、もう世界は要らないんじゃないか?」
と考える人が出て来ても不思議じゃない。
いわゆるなろう小説(異世界モノ)は意識してか無意識か、この考えに非常に近い位置にいる。
世界は所詮物語のための媒体でしかないのなら、そこに時間をかけるのは作者にとっても読者にとっても効率的じゃない。だったら手っ取り早く共通プラットフォームを使ってしまおうというわけだ。この共通プラットフォームがナーロッパであり、冒険者ギルドであり、ステータスオープンだ。
その結果、ファンタジーなのにあんまり幻想的じゃない世界という、一見矛盾した作品群になっているが、いや違う。これこそがファンタジーの本質なのだ。
さて、賢明な読者は見出しから次の展開が想像できている頃だろう。そう、この真逆の事象が星新一氏のショートショートだ。
SFの本質は世界なのだから物語は最小限でいいよね、という割り切りがそこにはある。筆者は子供の頃星新一のことを「書くのが面倒な物語から逃げるなんて卑怯なおっさんやなぁ」と思っていた(失礼)ものだがとんでもない、これが極限まで純化されたSFの姿なのだ。
ファンタジーから入った若い読者がSFを敬遠する理由がここにある。読者が世界を完璧に把握した上で純粋に物語を楽しもうとするのに対して、SF作家は物語全体を使って世界を語ろうとするので、両者の利害が対立する。その結果読者は「いつまでも世界観が見えない」としびれを切らしてしまうのだ。
・宝石の国に見る「語られる世界」としてのSF
皆さんは宝石の国を読んだことがあるだろうか?
まだの人は市川春子氏のこの傑作SF漫画をぜひ手に取ってみてほしい(アニメ化された分だけ見たよ、という方も是非原作で続きを確認してほしい)
え、宝石の国ってSFじゃなくない? と筆者もよく限界SFヲタクを見るような視線を向けられたものだが、今だったら胸を張って言い返せる。この紋所が目に入らぬか、と。
(権威バンザーイ、である)
第45回日本SF大賞(日本SF作家クラブ主催)が15日発表され、市川春子さんの漫画「宝石の国」(全13巻、講談社)に決まった
そう、宝石の国は「物語を媒体に語られる世界」を文字通り表現しているSFだ。軽いネタバレになるが、この作品では様々な形の読者の心を揺さぶる人間(?)ドラマが描かれる。ところがそういった「物語」は最終的にはすべて無に帰して、読み終わった読者の心には純然たる「世界」だけが残るのだ。
(「物語を消す」ことに対する終盤の作者の執念はもの凄い。長期休載すらも読者に物語を忘れさせるためなのではないかと筆者は邪推している)
宝石の国をファンタジーの文脈で読んだ人は、ひょっとすると物語がすべて消失した後も漫画が続くことに違和感を持ったり、もっと言えば蛇足と感じたのではないだろうか。ファンタジーの本質は物語であり、物語がないなら続けるべきではないからだ。しかし宝石の国はSFなのだ。
・スター・ウォーズ7/8/9の約束された失敗
こうなると、スター・ウォーズのシークエル三部作(フォースの覚醒〜スカイウォーカーの夜明け)が概ね不評な理由も見えてくる。
スター・ウォーズはSF作品で、物語を媒体に語られる世界そのものに魅力の源がある(ルーク・スカイウォーカーに感情移入して「あ、これ私だ…」となった人はあまりいないはずだ)
4,5,6でジョージ・ルーカスは壮大で斬新な世界観を映像で表現し、多くの人に衝撃を与え、SWワールドに引きずり込んだ。そして1,2,3では、銀河がこうなった切っ掛けを紐解くことで、さらに世界観のスケールを広げた。このスケールの大きさに魅了された人もきっと多かったはずだ。
そう、7,8,9の新三部作は構想段階から"詰んで"いる。なぜなら、もう語るべき世界が残っていないからだ。
世界が描けないなら、物語を書くしかない。
そこで、これまでのシリーズには存在しなかったリアルで複雑な人格をもったキャラクター像が作られ、様々な人間ドラマが繰り広げられた。しかし、スター・ウォーズファンの求めるものは、そんな物ではなかった。
SFで良く用いられる定石として「続編を書くときは思い切って100年単位で時代を飛ばす」というものがある。そうするとその間に世界は大きく変わるので、それを書けばいいというわけだ。
スター・ウォーズもそうしていれば、また別の評価を得たのかもしれない。
・おわりに
結論を最初に書いた割になんだか長々と続けてしまった。結局こいつは何が言いたいのか、とそろそろ怒られそうなので…
筆者はいちSFファンとしてもっと多くの人、特に若い人にSFを読んでもらいたい。その時にファンタジーの読み方をいったん忘れて、「物語を媒体に語られる世界」に着目して読んでみてほしい。
ひょっとしたら、今まで気づかなかったSFの面白さに気付けるかもしれない。それに気づいた時、「センス・オブ・ワンダー」の意味も自ずと分かるはずだ。
最後に宣伝。筆者はカクヨムで三流SFなどを書いています。興味があればどうぞ。
https://kakuyomu.jp/users/medea