多様性
私は元来、差別的で上から目線でプロトタイプな性格である。
何故そうなったのかと言われれば恐らく、幼い頃から何事も上手くやりこなす器用さがあり、そんな自分と劣る他人を比較して自己肯定感を高めていたからだろう。
一方で私はそこに悪意はなく、不快な振る舞いをしているという自覚はなかった。
それ故に、自分が目にしたイジメをその場でやり過ごすことなく食い止めたというような、まるで性格に矛盾してるかのような行いをしたこともあるほどである。
ある種、純粋無垢な子供らしさを携えていたのだ。
そんな私はその性格故に、主観に偏った意見を感情的になって他人に押し付けてしまう人間であった。
そこにも、まるで賢そうな自分を演出することで他人からすごいと思われたいと言うような厚かましく烏滸がましい欲があった。
ただ数年前から、私はそんな自分を良しとしてはおらず、論理的・理知的で合理性が高く主観に左右されない判断ができる人間になりたいと思うようになった。
そしてそのような人間とは、「許すことができる人間」、「許すことができる人間」というのは「多様性への理解がある人間」だと考えるようになった。
そのきっかけや経緯について話す。
私は小中学校と軽いいじめや迫害を受けていた。
だが無意識のうちに、その事象が起きている環境やコミュニティ以外に自分が依存できる存在があったため、意に介していなかった。
もしかすると、ただ何も考えていない大馬鹿者が故の鈍感さがそうさせていたのかもしれない。
時は経ち中学校を卒業した。
遡ってみると小学生から中学生にかけて、私はずっと他人をいじるような立場にあった。
逆にいじられるようなことは大嫌いな、プライドの高い性格だった。(その根拠は前述の通りである。)
そんな中学校卒業から高校入学までのある時期、私はこう思うようになった。
「今まで自分はどれだけの人間を傷つけてきたのだろうか」
「これまでしてきたいじりという行いは、ひょっとすると当事者にとってはいじめだったのではないか」
これと言ったきっかけはなかったが、恐らくそう思った理由は、「誰一人知り合いも友人もいない高校に進学するにあたり、一から交友関係を構築することへの恐怖」だったのだと思う。
併せて、今までずっと一緒にいた双子の弟と違う高校へ進学することになったことも理由の一つになりうるだろう。
そんな反省をするうちに、「ではこれから自分はどうすれば人を傷つけなくで済むか」ということを考えるようになった。
出した答えは非常に安直で「3年間クラスが変わらない環境で、友人を作らない」というものだった。
何故この答えが出たのかは定かではない。
それからの高校生活は思惑通り、友達があまりできなかった。
実際は数人ができたが、その数人はいまだに親友と呼べる方達だけであり、無理に友人の人数を増やすようなことは学校内やクラス内においては行わなかった。
一方で、私は軽音楽部を通じてバンド活動を行っていたため、所謂「バンド界隈」というものに所属していた。
高校生活の中に友人がいなくとも、同じ興味や関心を持ったそのコミュニティを新たな居場所とし、なに不自由ない生活を過ごしていた。
だがそこで問題は起こる。
恋愛事情のもつれや自分の人間性が原因となって、いじめを受けたのだ。
集団の仲間意識や団結力というのは時に恐ろしいもので、それは娯楽や快楽を求める集団であればあるほど顕著になる。
なぜなら、不快や不幸な要素になりうる人物を排斥する流れが生み出されるからだ。
私は唯一依存していたコミュニティにていじめを受けたことで、頼るものが無くなり一時不登校にまでなった。
一方でそれは自分を省みるきっかけになった。
私はまず「自分は何故いじめられたのか」を考えるようになった。
それから思考の幅は広がり、「人が人をいじめる理由(いじめが起きる理由)」「人がいじめられる理由」「いじめられる人が意識すべきこと」「いじめが起きないように大切にするべき考え方や価値観」などについても考察するようになった。
そしてそこから私は、いじめる側にもいじめられる側にも原因があって、それぞれが抱く価値観や考え方は必ずしも善悪で判断できるものではないのではないかと思うようになった。
そのあたりから私は価値観や考え方の多様性について考えるようになったのだ。
大学入学後も、新しいコミュニティに参加するにあたり「自分に相応しいポジションと振る舞い方」「コミュニティ内の対人関係において設定しておくべき妥協点」「他人が持っている意識や価値観とそれらによる動向」といったことに対して想像力を持って考えるようになっていた。
それでも尚、就活時に友人から「上から目線」「プロトタイプ」と、まるで多様性を重視できてるとは言い難い厳しいフィードバックを貰い、より自分の振る舞い方や姿勢を見直すことをしている。
具体的には、ジェンダー、宗教、環境、差別などの学問的社会的知識をより多く吸収するというような所謂「勉強」と、誰と話す時も反射的に自分が賛成し難い意見を提示された時に否定せず相手のバックグラウンドや考え方を想像する「意識」を持つようにしている。