オランダ教育という着物の危険性と責任

オランダ教育という着物の危険性


私が帰ってきたらたくさんの質問が来ると思う。そのとき自分は「オランダ教育では~」「イエナでは~」とか言葉を使うんだろうなと思う。でも、たった3ヶ月、オランダに行き、ほんのちょっとイエナをかじっただけで、その言葉を使うのって、危険だなぁと。リヒテルズさんの話で感じた。
まず、オランダと日本を比べることがナンセンスなのかもしれない。お寿司とぞうさんを比べているようなのかもしれない。でも、無意識に比較を前提に言語を組み立てようとしていたなぁと。大切なのは、オランダの影響から受けた自分の変化なのだと。

「taskではなく、respomsability責任を与えよ」と私。


昨日、晩御飯の片付けのとき、おかんさんとパンダさんが手伝ってくれた。そのときなんだか嬉しかった。なんでやろう?その時に思い浮かんだのが、「taskではなく、respomsability責任を与えよ」だった。もし、その手伝いがtaskだったら、ありがとう度も下がっていたのかもしれない。学校の掃除当番も、taskを与えている前提だから、掃除していない子に「掃除しなさい!」「していない子」と見えてしまう。担当を決めることで、何かが隠れるのかもしれない。もし担当、役割を決めなかったら、それぞれの役割を自分で探す。関わった分だけ責任もあるし、その分何かのプラスが返ってくる。それが自然な人間関係なのかもしれないし、じゃないかもしれない。でも、役割を決めないことは「不安」が生まれる。それは、人を大切にできているのだろうか?とも思う。そんな発見があった。頭でわかっても、なかなか難しいなぁと。

【2019.9.18追記】
・taskについては、方法はグループに任せられていて、自分達で枠組みを作ったから、それはそれでよいのかと、きのこさんと話して感じた。

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