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加害者にとっての支配対象は“ドナー”
毒親やハラスメント(身体的暴力に限らず全ての暴力をハラスメントと言います)の加害者と呼ばれる人たちは、多くの場合、自らの「非」を認めることが出来ない。
子供から過去の話を持ち出され「あの時辛かった」と泣いて縋りつかれようとも、我が子が大人になってどれだけ苦しんでいようとも、また我が子が親となり子供や妻に同じことを繰り返していようとも。
「加害者」たちは、自らの過ちを認めることはしない。
自らの過ちを認めることは、それはつまり、
被害者が加害者の「非」に気づき、被害者であることを自覚すると言うことです。
被害者が被害者だと自覚した時、当然ですが今までの洗脳が嘘のようにとかれ、まるで砂の城が崩れ落ちるように目の前の現実は打ち砕かれます。
加害者たちは怖いのです。
支配対象が自らの元から逃げて行くことが。
だから、
支配対象を失いそうになった時。
支配対象を思い通りにコントロール出来なくなってきた時。
加害者たちはまるで真冬の山で自らの命を失いかけた遭難者のごとく、半狂乱となる。
生きるか、死ぬか。
加害者にとって、支配対象を失うということは、それほど怖いことなのです。
何故、支配することにそこまで執着するのか。
それは、ひとことで例えて言うなら、加害者にとって支配対象は自らの命をつなぐ「ドナー」そのものだから。
心を健全に育ててもらえなかった加害者は、やっと見つけたドナーを簡単に手放すわけもなく、決して失うまいと徹底的に自分に依存させ支配します。
ドナーが逃げようとすれば、それは自らの死(ここでは心の死)を意味するので、半狂乱となりあの手この手で逃がすまいと必死になるのです。
時には激昂し、
また時には自責の気持ちでいっぱいな自分を演じて見せかけだけの反省を見せたり、
それでもダメなら自らの死をチラつかせながら相手に身動きを取れなくさせたり、
それは巧妙で狡猾なやり方を加害者たちは熟知しています。
目の前の「ドナー」を失ったら、適合するドナーを他に見つけることは至難の業で、次のドナーが見つかるかどうかもわからないなら目の前のドナーを何とか繋ぎとめようと思うのは彼らにとっては当然のことでしょう。
ただ、加害者の生い立ちがどんなものであったとしても、だからと言って今目の前の家族を傷つけて良いことにはなりません。
傷つけておいて、自分にとって都合が悪くなれば許しを乞うのはただの身勝手です。
加害者の生い立ちに責任を持つべきは、加害者自身とその親であり、妻や子供ではないのです。
今被害者と言われる立場ではを食いしばっている人。
どうか自分のせいだと思わずに、境界線を引いてください。
自分の心を守れるのは自分だけです。