映画「リンダ・ロンシュタット サウンド・オブ・マイ・ヴォイス」 ~Bury Me Beneath The Weeping Willow(柳の木の下で)
■顔が見えない国民的歌手
映画「リンダ・ロンシュタット サウンド・オブ・マイ・ヴォイス」を見た。好きで見たわけではなく、たまたまU-NEXTの無料映画の中で見つけたので、眠れない夜の暇つぶしに安いバーボンのソーダ割りを飲みながらPCのモニターで鑑賞した。
「サウンド・オブ・マイ・ヴォイス」は、リンダ・ロンシュタットのデビューから現在までを追ったドキュメンタリー映画だ。第63回グラミー賞 最優秀音楽映画賞を受賞し、2022年に劇場公開されたらしいが、僕は今回U-NEXTで見つけるまでこの映画の存在を知らなかった。リンダ・ロンシュタットというシンガーに、ほとんど興味がなかったからだ。彼女のファンの人からすれば、本稿は何を今さら…という話だろう。ちなみに、時代背景が重なる映画「ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック」の方は、公開直後に見ている。
「サウンド・オブ・マイ・ヴォイス」は、多くの関係者、彼女と交流があったミューシャン達の証言とアーカイブ映像で構成されている。結果的に、60年代末から70年代にかけて、フォーク、カントリーなどアメリカのトラディショナルな音楽とロックが融合していくプロセスの一面が、当時の西海岸の音楽シーンを中心に描かれている。
50代以上の洋楽好きで、リンダ・ロンシュタットの名前を知らない人はいない。また、ファンであったり意識的にアルバムを購入するなどはしていなくても、ラジオから流れる彼女の歌声を一度も聴いたことがないという人もいないだろう。何度も来日もしている。一方で、「ウェストコーストの歌姫」などと呼ばれたリンダ・ロンシュタットが、フォークロックなのかカントリーロックなのかオルタナカントリーなのか単なるポップスなのか、いったいどのジャンルに属する歌手であるのかを答えられる人も少ないだろう。かく言う自分も、リンダ・ロンシュタットがどんなジャンルの歌手なのかを聞かれたら、答えることができない。
リンダ・ロンシュタットは、1946年アリゾナ州生まれ。歌手を目指してLAに移り住んだ彼女は1965年にLAでフォークロック・バンド「ストーン・ポニーズ(Stone Poneys)」を結成、ウェスト・ハリウッドの有名なクラブ「トゥルバドール」への出演をきっかけに、キャピトルと契約してデビューを果たした。1973年には、アサイラム・レコードに移籍して数多くのヒットアルバムを発表し、全米を代表する人気女性歌手となる。彼女は、1974年のアルバム「Heart Like A Wheel」で初の全米No.1を獲得し、以後1970年代半ばから1980年代にかけて、ソロシンガーとして次々とヒット曲、ヒットアルバムを出した。グラミー賞は二桁、10回受賞している。
フォーク・ロック、カントリー・ロック、メキシカン・ミュージック(彼女はメキシコにもルーツを持つ)からジャズに至るまで多様なジャンルの音楽に挑んだ。自身がソングライターではなかったがゆえに、ロイ・オービソン、バディ・ホリー、エルヴィス・コステロなど多くのソングライターの曲や同時代の歌手やグループのカバー曲を唄ってヒットさせた。全米で大衆的な人気を獲得し国民的歌手となったが、それが逆に「特定ジャンルの音楽を好むコアなファン」を作らせなかったとも言える。
60年代末から70年代という激動の時代あって、しかもボブ・ディランやジョニ・ミッチェル、トム・ウェイツなどが居た伝説のアサイラム・レコードに所属しながら、反体制、サブカルチャーの象徴になったわけでもない。幾多のヒット曲はあれど、そしてアルバムは売れても、あくまで大衆的な歌手として、彼女にはどこか「俗っぽい」イメージがつきまとう。さらに、彼女が恋多き女性で、ミック・ジャガーやジム・モリソンとの交際の噂を始め、実際にカリフォルニア州知事のジェリー・ブラウン、ジョージ・ルーカスらと交際していていたことなども、大衆的な歌手としての立ち位置を浮き彫りにしている。
こちらの記事に書いたように、僕は80年代初頭からのルーツロック・ファンで、映画の中に出てくる60年代末から70年代にかけてリンダ・ロンシュタットと交流があった多くのミュージシャンのアルバムを聴いてきた。にもかかわらす、僕はリンダ・ロンシュタットのファンではなかったし、長い間彼女のアルバムを購入したことはなかった。彼女は、僕にとっては「顔の見えない歌手」で、興味の対象外だった。
僕が初めて彼女のアルバムを購入したのは、1987年にリリースされた「トリオ(TRIO)」だ。これは、エミルー・ハリスのファンだったからであって、リンダ・ロンシュタットにこだわって購入したアルバムではない。でも、「トリオ(TRIO)」そして「トリオ(TRIO)2」は、素晴らしいアルバムだ。
映画はまず、幼少時から音楽を志すまでのアリゾナでの生活が本人の口から語られる。兄弟でのフォーク・トリオの結成、そしてLAに出てザ・バーズやライ・クーダーに影響を受けたこと、モンキーズのメンバーだったマイク・ネスミスが書いた「悲しきロック・ビート(Different Drum)」を歌ってヒットさせたこと、初めて満員の大型アリーナで歌ったのが、ニール・ヤングの前座であったこと、グラム・パーソンズのコンサートで歌った時にエミルー・ハリスの歌声を聴いて敵わないと思ったこと、アサイラムへの移籍時期にJ・D・サウザーと同棲していたこと、バックバンドのドラマーがドン・ヘンリーであったこと、イーグルスが飛躍する転機となった2枚目のアルバム「ならず者」に収録されている同名のタイトル曲「ならず者(Desperado)」は、カバーした彼女が歌ったことをきっかけに売れたこと…などが、ほぼ時系列で紹介されていく。まさに、ウェストコースを舞台にした、フォーク・ロックからカントリー・ロックへと続くアメリカン・ルーツ・ロックの歴史を辿っているようだ。
■トリオ(TRIO)
繰り返すが、僕はリンダ・ロンシュタットのファンではない。女性シンガーに限っても、この映画の中に出てくるエミルー・ハリスやボニー・レイットはむろん、一時期彼女と関係があったとされるジャニス・ジョプリンなど、本気で何枚もアルバムを購入している。年齢的に同世代の女性シンガーでは、同じアサイラムに属していたジョニ・ミッチェルや、変わったところではマリア・マルダーやバフィ・セントメリー、そしてキャロル・キングやアレサ・フランクリンも好きだ。男性シンガーを含めれば、60年代後半~70年代にかけて彼女と関りがあった数多くのミュージシャン達、クリス・ヒルマン、ライ・クーダー、バーニー・レドン、J・D・サウザー、グレン・フライ、ドン・ヘンリー、そしてグラム・パーソンズ、ニール・ヤングなど、いずれもが僕が愛するルーツ・ロックの中心人物だ。でも、70~80年代半ばまでは彼らの周辺にちらつくリンダ・ロンシュタットという歌手にはほとんど興味がなかった。
漫然とこの映画を見ていた僕だが、映画の中で最も注目したのが、僕が大好きなエミルー・ハリス、そしてカントリーの大御所であるドリー・パートンとの関係だ。この3人の関係は1970年代初頭に遡る。
映画の中で語るエミルー・ハリスは、グラム・パーソンズの死で落ち込んでいた時期にリンダ・ロンシュタットとの友情に救われたと言っている(2人はクリス・ヒルマンの紹介で出会った)。そして、リンダ・ロンシュタットは、そのエミルー・ハリスに紹介される形で、ドリー・パートンとの交流を始めた。互いのステージで一緒に歌った。それぞれが所属するレコード会社が異なることもあって、70年代にはトリオを組んでアルバムを作ることはなかったが、互いの曲をそれぞれが自分のアルバムの中で歌っている。
1987年になって、やっとエミルー・ハリス、ドリー・パートンとの競演アルバム「TRIO」をワーナー・ブラザース・レコードから発表する。このアルバムはビルボード誌のトップ・カントリーアルバム・チャートで5週間連続で1位となった。また、ビルボード200チャートでも最高で6位に達した。カントリーとポップ両方のチャートでヒットし、400万枚以上を売り上げる大ヒットなった。グラミー賞も受賞している。
先に書いたように、僕が初めて購入したリンダ・ロンシュタットのアルバムが、この「TRIO」だ。そして、僕が「TRIO」を購入した理由は、大好きな「エミルー・ハリスのアルバム」としてだった。そして、この「TRIO」とその後に発売された「TRIO2」は、その後の僕の長い愛聴盤となり、2015年に発売されたリマスター盤も購入した。
3人のコーラスは、ともかく美しい。収録されている曲も、ルーツロック大好きな僕の心を打つ曲ばかりだ。カントリーに限らないが、どこか懐かしい、古き良き時代のアメリカを想起させる曲、歌声が心に響く。仕事中のBGMとして聴いた回数も含めれば、この30年間でもう何百回、いや千回以上は聴いただろうか…。ともかく僕は、この「TRIO」というアルバムで初めてリンダ・ロンシュタットという歌手の真価を知った。もしリンダ・ロンシュタットが、映画の中で初めて聴いたストーン・ポニーズ時代の路線でフォーク・ロック、カントリーロックを歌い続けていたとしたら、僕は彼女の大ファンになっていたかもしれない。
「TRIO」発売後も90年代終わりまで、長い期間に渡って、ライブにTVに様々な機会で3人は歌い続けた。
■柳の木の下で
映画の後半、リンダ・ロンシュタット本人とエミルー・ハリスへのインタビューシーンで、多くのミュージシャンと共にエミルー・ハリスの自宅でドリー・パートンと会った時のことが語られる。
誰かがドリー・パートンに「何か歌って」と声をかけ、そこでドリーが歌ったという曲をリンダ・ロンシュタットが口ずさむ。映画の中でその歌を聴いたとき、僕はすぐにその曲名がわかった。「Bury Me Beneath The Weeping Willow」だ。
映画には、その後3人でコンサートでBury Me Beneath The Weeping Willowを歌う映像が挿入されている。Bury Me Beneath The Weeping Willowを歌う3人の姿はとても楽しそうで、むろんハーモニーも素晴らしいが、残念ながら80年代に出されたアルバム「TRIO」にも「TRIO2」にも収録はされていない。
Youtubeで見つけた映像は、「1976/77」とあるから、たぶん映画の中で使われていたアーカイブ映像と同じドリー・パートンのコンサートのものだ。普段は無表情で歌うことが多いエミルー・ハリスが笑顔を見せて楽しそうに歌っている。イントロでドリー・パートンがギターのピッキングを一瞬ミスをする。エミルーの方に笑って顔を向けてから、3人で歌い出す。エミルーが膝を手で叩いてリズムをとりながら唄う。リンダ・ロンシュタットと顔を見合わせて微笑みあう。なんて素敵な3人のコーラスなんだろう…
Bury Me Beneath The Weeping Willowは、「彼は別の花嫁を求めて行ってしまった 私をしだれ柳の下に葬って そうしたらわたしが眠る場所が彼にわかるだろうから わたしのために嘆いてくれるかもしれない」…という、なんとも暗く悲しい内容の歌詞だ。でも、内容に反して曲調は明るくのどかだ。しみじみとふられた彼に想いを馳せるこの歌を、僕は昔から好きだった。実は、今でも夜中にアコースティックギターで3つしかない簡単なコードをアルペジオで弾きながら、小さな声でこの歌を口ずさむことがある。
Bury Me Beneath The Weeping Willowはトラディショナル・カントリー(フォーク)ソングの名曲で、多くのアメリカ人に馴染みの深い曲だ。1920年代にカーター・ファミリー(The Carter Family)が歌ったことで知られているが(元々はイギリスの民謡)、70年代以降もアリソン・クラウスなど多くのカントリーシンガー、ブルーグラス・バンドが好んで歌った。
そしてこの曲の邦題は「柳の木の下で」で、日本では70年代に高石ともやとザ・ナターシャー・セブンがよく唄っていた。僕は1973年に京都の大学に進学した友人に誘われて高石ともや(高石友也)のライブ(京都で行われた宵々山コンサート)を聴きに行った。そこでザ・ナターシャー・セブンがこの「柳の木の下で」を演奏するのを生で聴いた記憶がある。誰が訳したか知らないが、割と原詞に忠実な日本語の歌詞も悪くない。
余談だが、高石ともやと言えば岡林信康と共に歌った「友よ」などの反戦フォークや、社会体制を皮肉った「受験生ブルース」などで知られる伝説的フォークシンガーだ。ほぼ同時代に活躍した岡林信康と並んで「アングラ」「反体制」のイメージも゙強いが、一方で抒情的、リリカルな曲をたくさん作って歌っている。「思い出の赤いヤッケ」「春を待つ少女」「私に人生といえるものがあるなら」「街」、そして彼の曲ではないが「ランブリン・ボーイ」などは印象に残る素敵な歌だ。彼が結成したグループ、ザ・ナターシャー・セブンは、当時のフォークシーンでは珍しいブルーグラス・バンドであり、バンジョーやマンドリンの音色に載せてトラディショナル・フォークやカントリーを聴かせてくれた無二の貴重なバンドだった。
そして本稿の最後に…、
映画の中でリンダ・ロンシュタットと深く関わる人物として描かれ、イーグルスに多くの曲を提供して「もうひとりのイーグルス」と呼ばれ、「ユア・オンリー・ロンリー」のヒットでも知られるJ・D・サウザーは、つい先月(2024年9月17日)にニューメキシコ州の自宅で死去してニュースになったばかりだ。
そして、「柳の木の下で」の日本語版を歌った高石ともやは、奇しくもJ・D・サウザー死去のちょうど1か月前、2024年8月17日に死去して大きなニュースとなった。
僕がたまたまU-NEXTで映画「サウンド・オブ・マイ・ヴォイス」を見つけたのが、J・D・サウザーと高石ともやの相次ぐ死の直後だったのは、何となく不思議な巡り合わせを感じる。
リンダ・ロンシュタットは現在も生きている。パーキンソン病に罹り、2000年代初頭に引退した。映画の中では、思うように声が出なくなってからも歌うことに執着を見せる姿を見ることができるが、何とも痛々しい。病と闘って、J・D・サウザーの分まで生きて欲しい。
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