わたしは人を馬鹿にしない、という決意
昨日、人間関係のモヤモヤについて、「論破」について書きました。
今日はここからさらに考えたことについて書いていきます。
人を馬鹿にする生き方について。
▶︎わたしはあの人たちより優秀だから、という安心感
日常会話で誰かのことを愚痴ったり、時に批判することでスッキリする。
ある意味、この行動自体が娯楽になっている節がある。
かくいう私も、心を許した家族にはそういうことを話して気分を整理していることが多々ある。
だけど、
いざその刃が自分に向くかもしれないと思ったとき、
心がざわめき、
震えるほど怖かった。
***
学校で若い教師として勤めていた数年間は、仲のいい同僚同士とよくそんな話で盛り上がる飲み会を楽しんでいた。
その瞬間の私は、最高に自己効力感があり、「うちら最強」的な無双感にひたっていた。
って思っていた。
何もわかっていない他の先生像を勝手に生成して、「安心感」を得ていた。
でもその安心感は、お互いにそんな話をしあえる同僚がいる間のはかないものだった。
今になってようやく分かる。
どんなにそのことが、周りのことを「わかっていない」生き方だったかを。
それが、傲慢なことであったかを。
▶︎「頭悪い」「能力がない」「もっと勉強した方がいいよ」
あれから数年が経ち、私はいまだに職探しをしたりしなかったりしている一人の人間にすぎない。
だいぶ、自分の心の弱さを理解するようになってきた。
そんな中で、先日投稿したような「論破」の言葉に触れた時。
言い換えれば、誰かの価値観や行動を否定することで自分の正しさを強調する、傲慢さに触れた時。
どうしようもなく、恐怖とか、不快感を覚えた。
自分に向けられたその刃は、
相手が無自覚であったとしても、
確実に私をこき下ろすことで自分だけが生きようとする刃なのだと。
そして、その刃の存在は、確実に自分の中にも存在していたものだし、今も無意識にひっそりと研ぎ続けているものであると。
▶︎誰かを馬鹿にする生き方は、自分に返ってくる
ようやく、誰かを馬鹿にする生き方は、自分への眼差しとして返ってくるものなのだと気づいた。
自分への眼差しというのは、あの時自分が考えていたドス黒い「馬鹿だな」の気持ちが自分に向かっているということを実感すること。
もしくは、もしかしたら他人が自分にそう思っているかもしれない、と思い込みやすくなってしまうこと。
どんどんがんじがらめになって、孤独感に押し潰されて、無力化していく感覚になる。
***
だから、これからは他人を馬鹿にする生き方はしたくないです。
それは、「他人を馬鹿にしている人すらも馬鹿にしない」ということでもあります。
その人と無理やり付き合おうとするのではなく、適切な距離感を保つこと。
その人にはその人の関係性があって、その関係の輪から抜ければいいだけ。
その人を馬鹿にしたり、こき下ろすのは、結局、関係の輪に自分から飛び込んでいくことにすぎない。
そんなことを考えました。
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