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「論破」をしない生き方がしたい

こんにちは。だいぶ秋めいてきましたね。
今日は、久しぶりに対人関係にもやもやしたので徒然日記で整理してみます。

家族と友人のピリついた状況にもやもや

久しぶりに会った友人を家に招き楽しく食事をしました。
趣味の話や最近の出来事の話に大盛り上がり。
今日はとてもいい日だなと思っていた…のですが。

長時間話していると、話題は多岐に渡ります。
段々と仕事観とかお金の価値観とか、健康の価値観の話へ。

自分の家族と共通の友人だったので、家族がその話にのめり込んでいきました。

詳しい内容は省きますが、かなりそれぞれの深い価値観を出し合うような会話になっていったように思います。
お互い「そういう考えもあるんだね!」と対話形式であればよかったのですが、どこかお互いを「論破」していくような様相になっていきます。

自分の大切にしている価値観や、当たり前と考えていることを否定されること。それは人格否定されたことと認識します。脳の構造としてそうなりやすい、という話をかつて教員時代に研修で聞いた気がしますね…。

だんだんと雰囲気はなんだかピリついた雰囲気に。
喧嘩とまではいきませんでしたが、なんだか居た堪れない気持ちになってしまいました。結局、一人が中座したことでその話はそこまでとなりました。

しばらく他人とここまでぶつかることから離れていた私からしたら、
喧嘩別れするわけでもないのに、ものすごく落ち込む出来事となってしまいました。

「論破が全てじゃない」と話していたはずだったのに…

なぜあんなことになってしまったのだろう。
どうしてももやもやが拭えない私は、冷静になった頭であの会話を振り返ることにしてみました。

思い返すと友人との会話の中のキーワードとして「論破」という言葉が浮かび上がってきます。

友人が最近YouTubeなどでひろゆきさんの動画が人気だねという話題を出してきたことを思い出しました。

論破自体が一つのパフォーマンスであって、その手段が万能ではないのにわかっていない人が多すぎるよね

ふむ、おもしろい考え方だなあと話を聞いていました。

その数時間後、価値観の違いの出し合いが「どちらが正しい価値観か」みたいな勝負の土俵に代わっていき、友人と家族との中で論破のしあいっこを始めてしまったのではないか、と気づいたわけです。

第三者としてではあれだけ「論破」について冷静に考えていても、いざ自分の価値観では納得できないものに触れた時、それもその触れ方が強烈である時、自分の正しさを表明すること(論破すること)で、自分の居場所を守ろうとするのではないか、と。


論破という勝負の土俵から自然と降りたい

私自身はその場にいたときにそのピリついた雰囲気に完全に呑まれて、苦しくて仕方なくなりました。

誰かより自分が優れていると思いたい。

この欲求は友人や家族だけではなく、誰でも持ちうる脳の欲求だそうです。

それを知った上で、今回の出来事を受けて、改めて人との比較や勝負の土俵からは降りられるようになりたいなと感じました。
それは相手のためというよりも、自分の心の安全のために。

さらに、

そういう会話に陥りやすい人間関係は適切に距離を取ろう。

そうとも考えました。

なぜならその友人と家族とで、芯をくった話をするとかなりの確率でそういう流れになったことを思い出したからなのです。

当の本人たちはあまり気にしていないのかもしれません。
だからこそ、時間が経っても食事をとるような関係性なのですから。

しかし、自分にとっては居心地がいいとは言えない時間が少なからず生まれる関係性でもあります。
今まではそんな関係性を「どう良くするか、よくするために自分がどう変わるか」を意識していました。

でもこれからは自分が努力することだけにこだわらない生き方がしたい

論破のし合いが好きな人もいれば、私のように耐性がなくて苦しい傾向の人もいる。

そしたら同じような人と居心地良く過ごせばいいんじゃないのかな。

仕事だったらしょうがない部分もありますが、プライベートの関係は自分で選べるしアップデートできるはずなんだから。

そんなことを再認識した出来事でした。

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