アラ還おじさんのMid Point(6)25年振りのバンド活動【袋小路の連続】
1991年「スーパーる〜ず」は僕が加入後の4人編成となってから2年が経過しておりました。
この年ドラム担当のKさんが富山に異動となり赴任することになりました。
Kさんは当時独身で埼玉県川口市の実家暮らしで、僕らの練習拠点もKさんの馴染みの川口駅近くの楽器店のスタジオでした。当時は1988年頃からのバンドブームによりスタジオの使用時間も2時間以内との制限も多いなか、そのスタジオは僕らにだけは空きがあれば何時間でも貸してくれました。
僕もKさんもそして他のメンバーもその楽器店から機材なども多く購入していたことから、店長をはじめスタッフの方々からも日頃から親切にして頂いておりました。
当時の僕らはほぼ毎週土日はバンドのために時間を使っておりました。
土日いずれかもしくは両日スタジオで練習し、一日は新曲の仕込みや打ち込みの準備と本当に休みはバンドに全てを捧げておりました。
Kさんが富山に行ってからは毎週スタジオに入ることができなかったため、彼が戻って来れる時にスタジオ入りし、それ以外は残りのメンバー3人で曲づくりを続けておりました。
そのため以前のようにライブは頻繁には行うことはできず、ひたすら3人で曲づくりと4人全員での練習だけがバンドの主な活動になりつつありました。
僕は当時千葉県市原市に住んでおりましたので、毎週市原から練習時は川口へ、曲づくりの際はボーカルのAさんの実家のある東京都江東区まで車を走らせておりました。毎週の往復はとてもキツく感じましたが、当時はまだ若く、バンドをやるために仕事をする、週末を迎えるために辛い仕事も耐えるという「意識の低い」若手会社員でした。
またキーボードのHさんが勤務の都合で同じ県内の千葉市に住んでいたので彼をピックアップしていたため、車中でバンドだけでなく色々と会話できたため退屈しなかったというのも長時間の移動でも耐えられた理由でもありました。
その生活に変化が訪れ始めたのは、Kさんが富山から川口に戻って来る頻度が月一回であったのが減ってゆき、2ヶ月に一回戻れるか戻れないかの状況になってきた頃からでした。
当時、関東に残された僕らはバンド最優先の自己中心的な思考しか持っていなかったので、Kさんにはもう少し戻って来れないかとお願いしまくっておりましたが、当時Kさんは僕やHさんと同じメーカー勤務。富山工場への製品の製造移管のための認証手続き等で大変多忙だったようです。僕自身はその大変さを同業の立場からも理解していたつもりではありましたが、他業種勤務であったAさんは「そんな会社やめて川口に帰って来ちゃいなよ」と勝手な事を平気で言っていたのを覚えております。
まあ、Aさんはそれまで勤めていた介護施設を辞め公務員になろうと企んでおりました。介護施設の事務職であったそうですが給料は決して高くなく、平日は結構仕事が雑用も多くきついので公務員になり楽するのが夢と語る人でしたから、「会社なんて辞めちゃいなよ」というのはまるで彼の専売特許のようでした。
僕もメーカー勤務の研究職でしたが会社が合わないとか仕事がきついとか彼に愚痴ると同じように「それなら辞めちゃいなよ」という調子でした。
彼はその後地方公務員の上級職に合格したので、そのまま続けていれば今頃は部長や局長クラスになっているはずです…。
そんなこんなでこの影響で91〜92年にかけてライブを全く行えないという事態となりました。
1992年に入るとバンド活動自体はだんだん頻度も減ってゆきました。それでも92年に入ってからライブハウスの出演ではなく、ライブスペースを借りてそこでワンマンでライブをやってみようということになりました。
今はすでに閉店して影も形もありませんが、駒込駅側のライブスペースでのライブを92年に1回だけ開催、30人も入れば満員となるので一人5名入れればそれなりの人数になるのと、ライブハウスのチケットノルマ程は厳しくはないとのことで、このワンマンライブ形態が以降数年の主なる活動の一つになってゆきます。
それでも全員揃っての練習がなかなか出来ないこともあり、バンド活動は袋小路に当たりまくるようになります。また関東にいる3人はAさんの友人や彼のフィアンセの友人などと飲みに行ったり、旅行に行ったりとこれまで味わえなかった楽しみをバンド活動以外で得るようになりました。
僕も当時好きだった野球観戦にも頻繁に行くようになり、楽器を触る事自体がだんだんなくなりつつあるにも関わらず、野球観戦で知り合った新しい仲間達との付き合いを楽しむようになりました。
それはバンド全体だけでなく、僕自身のプレイヤーとしての腕もどんどん落としてゆくきっかけにもなっているのに気づく暇もないほどでした。
バンド活動はどうなってしまうのか、心の何処かでは不安になっていながらも他用を楽しむことで低迷しつつバンドの現状に目を瞑る日々を送り続けることになりました。
翌年のある出来事をきっかけにバンドはもう一度蘇ることになります。
<(7)に続きます>
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