
「要領いいだけだから」という謙遜が便利で悲しい人へ
「要領がいい」は、少なくとも日常生活では、あんまりほめ言葉では使われない。むしろ体のいい自虐としてとっても便利。
「ほら、きちんと努力してるわけじゃないんだけど、たまたまうまくいっただけで、そういうことが幸運にも何度か続いているだけだから、いつか手痛いしっぺ返しをくらうと思うし、そうなったら今上手くいってなくてもちゃんとやってた(?)あなたの方がきっと報われるよ!多分。」
という謙遜と持ち上げが一気にできる言葉だから。
「要領がいい」という意味での「要領」とは
物事をうまく処理する手段。処理のかんじんのところ。こつ。また、要点をつかんで、巧みに立ちまわる方法。
だそうなのだけど、謙遜したくて「要領がいい」という時、それはもはや「運がいい」と同じくらいの意味で使われている。し、使っている。
でもそろそろ、要領がよくたって許されたい。「不器用だけど愚直に頑張った主人公」の当て馬に、自分を投影していたくない。
「要領がいい」も一つの能力
なんでかって、要領よく立ち回るには、それなりに頭を使わないといけないから。どこには手を抜いてよくて、どこは頑張らないといけないのかを考え、時には失敗した経験も踏まえながら想定しておかないといけない。
そうしたエネルギーや手間と、ただ愚直に頑張った人の長時間を天秤に載せて、後者が重いなんて誰が言えるんだろう?
要領がいい人とそれ以外の人は、同じ目標に向かうなら補完関係にある。
どちらが後ろめたいとも思わず、助け合えるはずなんだ。
要領がいい人は最短距離を考え続ける。考え続けて、本当にここは愚直にやるしかないって部分に対して、いつまでもぐずぐずと「無駄じゃない?」とか思ってたりする。当然効率は悪い。
更に、最短を突っ走ろうとするからこぼれおちるものもある。見落としていたり、配慮し忘れたり。
そんな時、やるっきゃないっしょ!と前向きに進める人だったり、ちょっと待ちなよと効率で語れない部分を指摘してくれる人が、チームに不可欠になる。
謙遜なんかされているより、各々ができることを提示してくれた方が、成果は大きい。
それでも要領のよさを否定してしまうのは、
「私たちにわかるような形で、わかりやすく、頑張った過程を提示してくれないと、認めてあげません」
という声がどこからか聞こえてくるからだろうか?
物事の過程も大事。結果も大事。そして過程にはいくつか選択肢が存在していて、環境によってはどれかが正解になる場合もある。
もうそれでいいじゃないか。どうして「時間をかけた」という過程だけ、成果への評価が甘くなるほど優遇されなくちゃならない。
「要領いいだけだから」という謙遜フレーズを使いこなしてきた、全ての人たちへ。それで結構じゃないか。
「正当な分量の」努力をしてないだろう、なんて決めつけ、笑い飛ばしてしまおうぜ。
それじゃあ、また。