腫瘍が見つかって人工関節になった話2
こんにちは(^_^)
part2です😼
前回初日の痛すぎエピソードを書いた。
今回も、というか痛かった~というワードは今後もたくさん出てくると思うけど、どうか勘弁してください。
さて翌朝、寝て起きても痛みは変わらず、痛すぎて顔が引きつったり呼吸が荒くなるので普通通りに話せなかった。
朝ご飯は食欲なくて食べられず。
しばらくして整形の先生がきた。レントゲンを見たうえで、骨折していて明日昼間に手術する予定ですと伝えられた。
家は千葉だが今の状況で千葉に帰ってそこから手術入院リハビリをするよりも、長野で手術し、2,3週間リハビリをして松葉杖つけるようになったら千葉帰るほうがいいね~という話になった。
太ももの遠位(膝近くの太もも)の骨が横にバツっと切れてて、膝の骨がぐしゃぐしゃになっていたらしい。さぞ痛かっただろうと言われた。
その時点では、「大腿骨遠位部骨折」というものだった。
すごい血の気の引くようなこと言われたけど、でもすぐ手術できるのか、、よかった、、2,3週間って長いけど明日すぐ手術できるなら頑張れそうだ、、と思っていた。
私が入った4人部屋の病室はその時点で私のみだったため、両親に連絡するようだったらここで電話していいからね、と看護師さん。
転んだり救急搬送されたりが深夜だったのと、怒涛の出来事で混乱していたこともあって、その時点ではまだ両親に連絡していなかった。
両親とLINEでのやり取りはたくさんあるけど、私からいきなり電話をかけることなんて滅多にないので、焦って折り返し電話が来た。
旅行先の長野で転んで救急搬送されたこと、骨折していて明日手術予定のこと、確定ではないが、手術したとしてもしその時何かあったらのためにこっちに来れそうかということ、など伝えたり。
両親大パニック。色々聞かれたけどたくさん話すのがしんどくて詳しいことわかったらまたLINEすると言って切った。
いつでもそっちに行けるように仕事調整すると言ってた。
よかった、痛いしここが長野なのが絶望的だけどとりあえずこれからの見通しとかもたって、、と安心したのもつかの間、病室の外から麻酔科医っぽい人の会話が聞こえた。
明らかに私の話で、ざっくりまとめると、手術明日ってさっき主治医言ってたけどなんか無理っぽいよ。あ、そうなの、という話。
一気に不安になったけど、いやまだわからんと思ってはやく手術の説明こないかな~とわくわくしていた。
すると、主治医がCTの結果見せながら話するから外来にきてくださいと。お母さんみが強い看護師さんと一緒にベッドごと外来に行った。
診察室入ってびっくり、にこにこな先生の顔だいぶ険しい。
「あなたの年齢(当時21)で、転んだだけであそこまでの骨折になることはなかなかない。高齢の方ならともかく、既往歴など何もない健康なハタチそこそこの子が、ここまで骨がぐしゃぐしゃになるのはおかしい。
そこで明日手術予定で準備を進めていたが、CTの結果を再度確認してみた。すると普通の外傷骨折ではない。腫瘍性の骨折っぽい。
詳しい検査をしないと何とも言えないが、おそらく良性の骨巨細胞種というものと思われる。
骨の腫瘍っていうのはとても希少で、骨腫瘍専門の医師がいる病院で診てもらい、手術をしたほうがいい。
今後も継続して通院することも考えると、千葉の大学病院やがんセンターなどにこの状態で転院し、手術入院リハビリすべてそちらで行ったほうがいい。
今から近日中に受け入れてもらえる千葉のそういった病院を探してみる。
向こうに移ってからすぐに手術に移れるように、こちらでMRIなどほかの検査を済ませよう。」
というのが主治医の話。不思議と驚かず、普通にああそうなんですね、と聞いていた。現実味がなくてよくわかってなかったのかな、あの早すぎる飲み込みは何だったんだろう。
病室に戻ってから、両親と彼氏に簡潔にさっきのことをラインで伝えた。
とってもショック受けてた。
そういえば彼氏、あの後1人で泊まって、次の日私の荷物と水やらを病院に届けてくれて、そのまま渋滞に巻き込まれながら1人で帰って、次の日から仕事だった。色々な感情の中、とんでもなく大変で辛かっただろうなと思う。
母はパニックで父は受け入れ難い感じだった。
腫瘍なんて重いこと言われた後で、心配だったのか看護師さんしばらくそばにいてくれてお話ししてた。私が何も驚かず、普通にはいはい頷いてるからびっくりしたよと言われた。たしかに
そこからすぐに千葉で受け入れてくれる病院が見つかったと報告があり、普通の車では千葉まで行けないからストレッチャー付きの介護タクシー手配してもらって、それで2日後の朝イチで長野を出る予定となった。
明日手術予定だったのに、伸びてしまってそれが何だか一番ショックだった。現状が辛くて早く手術したかった。
転院後向こうの病院での検査だったり、医師が色々計画立てたりと少し時間かかるから、最短でもあと4日、土日挟んだら7日くらいかかる〜とわかって絶望だった。
転んだのが14日の23時頃、救急搬送されて病院に着いたのが15日の0時頃、長野の病院出たのが17日の朝10時くらい。
長野の病院にいたのはたったの3日だけど、体感では5日くらいあった。痛くて寝られなかったり、遠い地で一人っていう孤独感だったりで。
一番痛くてしんどい思いした3日間だった。今までの人生で間違いなく一番。
でもそんな中、看護師さん3人ととっても仲良くなった。
16日にベッド上でシャンプーしてもらったんだけど、怖そうだな、、って思ってた看護師さん、めちゃくちゃ優しくて面白い人だった。色んな話した。旅行中にこんなんなって不運すぎるけど、でも見つかって本当にラッキーだったよ!って話してた。
トイレに行けないのでバルーン入れてたけど、大の方はどうにもならないのでオムツ着けてた。お風呂もずっと入れなかった。
陰部洗浄も全身清拭も、恥ずかしくて屈辱で消えたかった。身の回りのことほとんど何もできなかった。出来ること食事と歯磨きくらい。
色んな思いをした。
MRIの検査の時も、またまたスライディングボードの地獄のような時間があった。何回も泣いてぐったりして痛い痛い言った。
足の装具付け替える時もベッドの両脇の柵ちぎれるくらい握りしめて泣いてた。
足のつま先少しトンってされただけでも痛かった。布団の重みさえもしんどくて左足に何も掛けなかった。
特に足を持ち上げられる動作が耐えられなくて、でもこれは移動する時、着替えの時、付け替える時、全部で使う動きだった。ほんんの数秒なのにそれが嫌で嫌でこれからそれが起こるってわかるとまたあの痛いのやらなきゃだめなのかって涙流してた。それくらいに痛くて耐えられなかった。
やっとの思いで17日朝、転院の日。
朝イチだったのに主治医の先生が顔だして励ましにきてくれた。嬉しかった
その日の朝から、なんとあまり痛い思いをせずに移動できるようになった、、!!!
装具つけて、クッションの上に足のせてたんだけど、
足に振動こないように、クッションごと両手でじわ〜っとずらしながら、お尻をずりずり動かして、自力でゆっくり台にうつるようにした。
医師も看護師も忙しくて、1人の患者にたくさん時間食ってる場合じゃないのはわかってたけど、これだけは本当にごめんなさい許して、、あの思いだけは、、って気持ちだった。
謝ったら痛くないのが一番いいよと言ってゆっくり待ってくれた。自分1人でここまで出来るのすごいよって褒めてくれた。あんた器用ね〜!だって、やったね〜
16日の日中から、痛み止めの選択肢が点滴・飲み薬から増えて、座薬が登場した。
なんとこれがめちゃくちゃ効いて、16日の夜はちゃんと寝られた。
座薬その後も大活躍で、介護タクシーの移動中痛くなった時用に持たせてくれた。
そんなこんなで無事朝の10時台に長野の病院出発。見送りしてくれた仲良くなった3人の看護師さんずっと手振っててくれた。あたたかかった。
介護タクシーは思っていたよりも揺れて、揺れる度に足に響いた。
出発直前に座薬入れて、最初は大丈夫だったけど、少し寝て起きた頃にはかなり響くようになってた。
一定時間あけてから、揺れでの痛みがきつくて座薬入れた。変な感じだった。
ちょうどお盆の終わり頃だったからかとんでもなく道が混んでて、ストレッチャー固いよお尻痛い限界早く着いてーーーってずっと思ってた。
長時間揺られて、なんとか千葉の病院についた。
病室着いて、諸々落ち着いたのが16時半くらい。
ここまでがpart2!
次は千葉の病院着いてから〜です。次回がメインなのかもしれない。
拙い文だけど引き続き読んでくれると嬉しい😸
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