誕生日の心象風景2024
誕生日が近いので、例年通り今日は休みを取った。本当は明日が誕生日なのだけど、明日はどうにも休めないので、今日になった。
「39歳」という年齢のリアリティが全くない。ちなみに38歳についても全くリアリティを持たないままその1年が終わろうとしている。リアリティはないながらも、今手に持っているものをじつと見てみると、やっぱり俺もアラフォーと言える年齢になってしまったのかもなと思う。使った記憶がないままに高額となったクレジットカードの明細を、じっくり検証するとやっぱり使ってたわ、と思い返すアレに似ている。
今日の最高気温は36度。去年と同じように、車の冷房をガンガンにかけてドライブに出かける。行きのドライブのお供はレッドホットチリペッパーズ。「Californication」と「By the Way」をスマホにダウンロードした。かつてあれほどバキバキブリブリに聴こえたフリーのベースも、今の基準からするとちょっと薄く聞こえる。もう30年近く前の音源だから仕方ない。
漠とした不安がこのところずっとある。もう2,3年は経つだろうか。
周囲が目まぐるしく変わっていく。全く変わってないように見える社会もよく見たら細かくアップデートされているし、会社の同僚もどんどん入れ替わって、娘もどんどん大きくなって、新しいことが次から次に僕の周りで立ち上がっては大きくなったり消えていったりする。そんな中、僕自身はずっと同じところに立ち止まっているような気がしてならない。
実は、大人にはこういうことがあるよ、と複数の人生の先輩から事前に教えてもらっていた。だから、頭では「ああ、これのことか」と整理はついているが、いざその渦中に入ってみると「いや、これどうすりゃいいのよ」と悩む。悩みは去年が一番深かった気もする。去年は体調も崩しまくるし、プライベートもカオスだったし、仕事で辛いこともあったし、本当に散々な年だった。
ただ、まあ、ただ状況にぶん殴られ続けるだけではなく、去年から一応足掻いてみてはいる。
かなり規則正しい生活サイクルを回し、勉強と運動の習慣づけをした。難関とされる資格も取得し、そのあとはその時間をそっくり英語に注ぎ込んでいる。コロナ以降ご無沙汰だった、出入りの自転車ショップのハードな練習にもまた行くようにした。娘の学校のボランティアにも参加してみるようになった。
そのどれもが「だから何だよ」となってしまうものではあるけど、それでも、やったことの答え合わせというか、少しづついいことが起き始めていたりする。
資格は今のところ取ってよかったと思うことしかないし、英語だって、テレビやラジオから英会話が流れてきたら何て言ってるんだろうと耳を澄ませるようになった。久しぶりにちゃんと行き始めた自転車の練習では、我を忘れて必死になることが、実は精神衛生を保つ上でとても効果的であることを知った。ボランティアなんて、以前の僕ならやろうとすら思わなかったが、地域に知己ができることが、これほどまでに心の安寧に繋がるものだとは知らなかった。
その全部がやってみたことに対して、勝手についてきた結果だったり行動の変容だった。逆に言えば、何もしなければ何も起こらないのだろう。
だから、変わらないように見える自分に抗うには、結局はジタバタ足掻いてみるしかないのだと思う。華麗に時代を渡り歩いているように見えるおじさまたちも、実は息をするように足掻いているだけなのかもしれない。その足掻きが(あのおじさまたちのように)誰かのためになるならばそれはとてもカッコいいけれど、単にジタバタするだけでもいつか何かに繋がるのかもしれない。それは、場合によっては、とても、カッコ悪いかもしれないが。
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遠くの喫茶店でケーキを食べる。飲み物はコールドブリュー。きっと後でカフェインに胃がやられて気持ち悪くなるだろうけど、 どうしてもコーヒーが飲みたかった。
帰りの車では、レッチリでなくてUNISON SQUARE GARDENを流す。彼らは僕と同い年なのだ。僕が新卒のSEとして事務センターを右往左往してた頃、彼らはメジャーデビューした。以前なら、同い年で早稲田出ててなんかオシャレでキャッチーな音楽やってる奴ら、なんてキーッとなって聴けなかったが、今は不思議とああ、彼らも頑張ってるなと思いながら励まされる存在となっている。
彼らの音楽は、ベースが動きすぎてたり、時たま言葉遊びしてることがあったりして鼻につくところもあるのだけど、なんていうか曲から「とにかく伝えたいことがある」という気持ちを感じられるのが好きだ。キャッチーなフレーズの中にも、ある種の気合を感じる。最近、気合が感じられるものに強く惹かれる。
気合。つまりは精神論だ。でも、人に何かを伝えようとしたとき、最後に決め手となるのはパッションであり、気合なのは間違いのない事実だ。どうしても、どうしても伝えたいことがある時、人は真摯な迫力を醸す。僕はそれをとても美しいと思う。
思っているだけでは評論家に過ぎない(し、評論家となったおじさんほど醜いものはない)ので、せめて、その美しさに近づく努力はしたい。まずは伝えたいことを、自分の中から探してみよう。多分手には持っているはずなのだ。カッコ悪くも足掻きながら、伝えたい言葉を探すのを39歳の目標としたい。
より長く走るための原資か、娘のおやつ代として使わせていただきます。