曲をコピーする楽しさと美意識と怒りについて
今月頭に再開したギターは相変わらず続いている。手始めに目をつけたかつてバンドでやった曲の記憶は割とすぐに取り戻し、さすがに完全なるレベル1からの再開とはならなかったことを喜ぶとともに、正直ちょっと残念な気持ちを持った。挑戦は尊いものだが、挑戦と再挑戦はやっぱり少し色合いが違うのだ。たぶん楽器を奏でる能力も泳ぐとか自転車を漕ぐみたいなものに近くて、早晩かつて挫折したジャズにもまた手を出せそうな気配を感じている。
再びジャズが熱くなり始めてるのは、最近Jacob KollerさんのYouTubeばっかり見ているのも一つの原因だと思う。かつてのギターの師匠がアルバムを出した時、ピアニストとしてパーソネルに名を連ねていたのがジェイコブさんだった。なりゆきで見に行ったアルバムのお披露目イベントで演奏を目の当たりにして、なんちゅうかっこいい男がおるんやと愕然としたのもいい思い出だ。YouTubeではそうしたスマートさを匂わせつつも、ジャズの楽しさがめいっぱい表現される動画を上げている。(もう一つ、ゴリゴリにシリアスなジャズをやっているチャンネルもある)
今手元にあるギターは前回の記事で紹介したストラトと、ジャズギターを習っていた時の師匠の一人(上の人とは違う人)から破格で譲ってもらったセミアコの2本だけど、今はもっぱらストラトのみを弾いている。ロックンロールの歴史におけるフェンダーのストラトキャスターは、ステージ上で火を放たれたりTVカメラに頭からブチ込まれたりと、割とキマってる逸話が多いギターではあるものの、優しく弾けばちゃんと優しい音が出るギターでもある。
その優しさ(激しさもだけど)を自分の手で現然させられるのが、楽器を奏でるメリットの一つだと思う。仮に弾くのが他人の曲だとしても、今その場にリアルな音像を創り出しているのは他ならぬ自分自身で、そういうタイプのクリエイティビティがこの世界に確実に存在しているのは、なんというかある種の寄る辺だなと思う。少なくとも今の僕の寄る辺にはなっている。
一方で、曲をコピーすること自体の楽しさもあると思う。これは長らく、それこそギターを弾き始めた時から何が楽しいのかをうまいこと言語化できておらず、なんなら曲を作れる人に引け目すら感じていたのだけど、なんとなく今なら行けそうな気がするので頑張ってみようと思う。
すごく大袈裟に言うと、曲をコピーする行為は「世界の(一部の)成り立ち方を追体験する行為」だと思う。音楽を含む芸術が世界の一側面を切り取ってそれぞれのフォーマット上で表現している以上、たぶんこれはそんなにピントがずれた見方ではないんじゃないかと思っている。
音楽を聴いて、これはいいなと思うものがどうなってるのかを調べて、実際に弾いてみて技術や音の重ね方の巧みさを楽しみ、その曲を手に馴染ませて自分のものにして奏でた時の自分自身のフィーリングを楽しみ、というなんかワインとかコーヒーなんかのテイスティングみたいなのが音楽をコピーして演奏する楽しさなんだろうなというところで、現状腹に落ちている。
ギターを一生懸命弾いていた若い時ももちろんコピーをいっぱいやったが、どちらかと言うと「俺たちがカッコいいと思うものを聴いてくれ」という気持ちが強かった。今ならば、それでカッコよさを伝えるのはちょっとキツそうだなと簡単にわかるし、実際あんまり伝わっていない感触もあったのだけど、その向こう見ずさ加減が若い勢いを産むのもまた事実なので、こういうところでも年を取ったなと思ってしまう。今ならウッてなって絶対できない。
もう一個、その場における音響装置としてのコピー(踊らせるとか盛り上げるとかなんかいい感じにするとか)も数多くやったが、あれはあれで楽しかった気もする。けど、なんかなあと思った記憶もあるので、この言語化によってかつての自分も救われた気がする。やっぱりあれは自分にとっては本質ではなかったのだ。
「音楽をコピーする行為は世界の成り立ち方を追体験する行為である」が自身に腹落ちしている定義ではあるが、書いているうちにこの見方の弊害を思い出した。
それは「音楽の受容が必要以上に分析的になり得る」ということだ。楽理にばっかり興味が行きがちで、技術的理論的により難しいアプローチをしている方が音楽的に価値が高いとか思ってしまういかにもオタクな考え方になりがちなのだ。何を隠そうかつての僕はめちゃくちゃそうだった。しかしその視座もまた本質ではないのは最早言うまでもないので、そういうところからはいい感じに距離を置いてオープンな気持ちで音楽を楽しみたい。
(オアシスとコルトレーンの音楽はどう考えても同じ土俵で比べられねえだろと言って、上の考え方を喝破してくれたのは他ならぬ上述のアルバムを出したギターの師匠だった)
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やっぱり触れずにはいられないのだけど、僕たちにはこういう上手くやれば少ない元手と努力で、美しさを自らの手で目の前に創り出せる幸せがあって、それを美しいと思える感受性がある。それらが確実にある一方で、その事実を見ないふりをして破壊し尽くして幸せを簒奪してきた歴史がある。あまつさえ、その美しさを破壊の原動力としてきた歴史も。
美しさに価値をおけば、おそらくこういうことにはなっていないと僕としては思うのだけど、おそらくこういう事態を引き起こしている人たちは美しさに価値を見出していないか、もしくは全く別次元の美意識があるのだろう。
もちろんこれは信条の問題なので正解はない。それにあまりにも主語の大きい話だ。それでも自らの美意識を踏まえて、いま自分はとても怒っているのだとこういうところに書いておくのは意味があることだと思う。
より長く走るための原資か、娘のおやつ代として使わせていただきます。