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生活を作りなおすことについて

僕はそんなにあちこち旅行するタチではないのだけど、旅に出るたびに楽しいなと思うタイミングがある。

それは「その街のルールに慣れようとする」ときだ。

どこの街でも、軽く混乱しながら宿に辿り着き、じゃあ街の中心に行くにはどの路面電車を乗り継いでどこで降りればいいのかとか、さっと食べる食料はどこで買えるのかとか、その水道の水は飲んでいいのかとか、そういう現実的なことを認識していくのが好きだ。

正直、観光名所がどうとかは僕はどうでもいい。その街で、仮に一瞬だとしても「暮らした事実」を作りに旅行に行っている感じがする。

ところで、先日引っ越しをした。

嵐のように家を買い、そして家を売り、現在は新居で生活を立て直している真っ最中だ。別に生活が頓挫したわけではないので、「作り直している」というのが正確かもしれない。

移り住んだ街自体はもう長い間馴染みのある街だったが、住むとなると全然違う一面が現れてびっくりする。それでも、そんな「街のルール」に順応していくのは楽しい。

街だけではない。今回マンションから戸建てに移り住んで、家からの洗礼もそれなりに受けてきた。引越しに際して大量のゴミを出したはずが、何故か引越し後のリビングにもゴミ袋の山があっという間に築かれたり、延べ床面積が1.5倍になったにもかかわらず、所在なさげに部屋の片隅に置かれている物が点在していたり。小さい家に収まっていたものが大きい家に収まらないのは一体どういうことなんだろう。考え始めた瞬間、目がシパシパしてくる。

それでも、物とゴミに溢れたLDKの片隅のダイニングテーブルで妻とささやかに酌み交わす祝杯は、我らながらなかなかエモいかも、と思った。おつまみは、カルディで買ってきた生ハムと、前の家で食べきれずに荷物に紛れてやってきたカラムーチョ。それをスーパー(いくつかあるうちの、ちょっとお高めのところ)で買ったシードルで。めちゃくちゃな組み合わせだが、悪くなかった。

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引越しにあたっては、娘がどうなるかが心配ではあった。引越しが決まって以来、しまじろうのらむりんがフランスに旅立つ回を何度も見ては、わたしもこうなるのねと浸っていたりしていた。ちなみに、同じ区内の引っ越しで保育園もしばらく継続なので、あんまり人間関係は変わらないのだけど。

しかし、大人同士が近所付き合いの距離感をジリジリと測っている中、子どもは子ども同士であっという間に繋がって、あっという間に近くの公園に飛び出して行ったり、気がついたらおじゃましまーすとか言ってよそのおうちに上がり込んだりしている。引っ越してきて以来、土日は100%ぶっ倒れるように寝ている。僕たちは娘を侮っていた。こんなに強いなんて知らなかった。

そういえば、僕は5歳くらいの時には一人で公園に遊びに行っていた。娘ももう、こうえんにいきたいこうえんにいきたいと親にせがむ日も終わりに近いのかもしれない。やれやれと思う反面、ほんのほんの少しだけ寂しい。

今回の引越しでも、当初は生活基盤が一旦ゼロになって、そこから1,2,3とまた積み上げ直していくものだと思っていた。これまでの引越しはいつもそうだったから。しかし、今回ここまでの経過を振り返ると、生活基盤が一旦ゼロになるところまでは同じだったが、その後がA,B,Cと積み上がっている感じがして、おやいつもと様子が違いますね?感がすごい。それもあって「立て直す」感は薄く、「作り直す」感は強い。

ゴミ山の中で祝杯を交わした妻は、結婚するまでカッターもろくに使えなかった。そんな妻が今では土いじりをし、ホームセンターの棚の前で考え込んだりしている。娘だけじゃなくて、家族みんなでそれなりにアップデートしながらここまでやってきたのか。

檸檬堂一本でぐわんぐわんに酔ってしまったまま書いた文章はとりとめが無い。しかしこれは週記。僕の記録。

より長く走るための原資か、娘のおやつ代として使わせていただきます。